王の祝福を祈る
前篇と同じく、これも「王の詩篇」。前篇の「とりなしの祈り」に対し、本篇を「祝福の感謝」と理解して関連付けることもできるが、内容的には、過去の祝福に基づく信頼によって神の助けを願い祈っている、と理解する。
19、20編と同じ。作者に関しては20篇参照
「主よ」と呼び掛けで始まり、詩全体が神への祈り(語りかけ)となっている。「あなた」が何度も用いられ、逆に一人称は詩の最後まで出てこない。徹底的に自分のためでない、他者(この場合は王)のためのとりなしの祈りである。
「あなたの力を」は、前置詞を手段と理解して「あなたの力によって」と訳すことも可能。しかし、その場合は「何を」喜んでいるかが1節では述べられていないので2節以降から推察する。ここでは手段ではなく喜びの対象と理解する。神によって何かしていただくことも喜びだが、信仰の経験が積まれていくと、神ご自身、神の力そのものが喜びとなる。「力」と後半の「救い」は並行関係にあり、神の助け、守り、救いを意味している。
「楽しむ」と訳したが、「喜び」でも良い。同じ動詞ではなく類義語が用いられているので、違いを表すために異なる訳語を使った。意味としては大きな違いは無いが、「楽しむ」は「喜ぶ」とか「震える」とも訳され、喜びによって震える様、あるいは躍る様子を指しているのかもしれない。未完了形だが、特に時制は意識していない。
「救い」は女性名詞を用い、男性名詞の「力」と変化をつけている。
「いかに大いに」は日本語としては上手くない。原文では疑問詞を用いて、「なんと」と強調し、さらに「非常に」という副詞も使って強調している。二つも強調のための語を加えた代わりに、後半では呼び掛けも主語も省略されている。
「彼の心の求め」と「彼のくちびるの願い」が並行している。口に出したものでも出していないものでも、願い求めていることを神が適えてくださる。王の求めは個人的な自己中心の願いではなく、王として民の祝福と救いを願うもの。「求め」も「願い」も女性名詞だが、「心」が男性単数であるのに対し「くちびる」は女性双数(二つ一組を示す)とコントラストになっている。前節もそうだが、詩文では必要ない接続詞「また」を用いることで、二行の並行関係をより強く打ち出している。
「与え」は意味の幅が広い動詞なので、さまざまに訳し得る。「行う」でも良いし、意訳して「適える」でも良い。前節では未完了形だった動詞が、ここでは完了形に変わっている。
「退けない」は前半の肯定的表現(与える)に対応して、否定的表現を用いている。否定詞「ない」は散文で多用される「ロー」ではなく、詩文独特の「バル」を使っている。
「セラ」は正確な意味は分からない。元々の詩の一部ではなく、音楽的記号として付け加えられたのかもしれない。ここでは特に内容的な区切りになっているかは不明瞭。構造的にも全体を二分する位置でもない。
「まことに」には理由を現す「なぜなら」と言う意味もあるが、ここでは強調の意味と理解した。ここでは、理由ではなく、前節で言われていることを具体的に述べ始めている。
「迎え」は「前」という名詞と同根の動詞で、先に立つ、立ち向かう、などの意味もある。ここは先に立って、「彼」を迎えるという意味。ただし、「彼」が「あなた」のところに来るという動作は考えていない。神の方が前に立っていてくださる。ただし、中近東の文化では「前に立つ」のは僕の姿であるので、神に対して用いるのは畏れ多い(創世記18:22参照)ので、「迎える」が良い。
「素晴らしい祝福」は直訳すると「良い祝福」、良き物に満ちあふれさせてくださるということ。「をもって」という前置詞は使われていないので、これは文章を整えるために加えたもの。
「いのち」は複数形。「あなたから」は日本語では「あなたに(求め)」とするほうが自然だろう。命はその源泉である神から与えられる。「求める」も「与える」も完了形。「何を」与えるのかは前半では省略されているので、多くの訳では「それを」を補って、求めている「命を」与えると理解している。それは間違いではないが、一行目で意図的に曖昧にしておいて二行目につなげ、後半で明らかにしていくのも並行法のテクニック。
「日々の長さ」は「長い日々」ではない。「長さ」は単数形なので「日々」(複数形)を形容しているのではないから。「日々」は「人生」の意味で使われている。
「永遠に」は「永い」と「絶え間ない」という意味の二つの名詞を結びつけていて、詩篇の中でのみ使われる表現。通常は「永遠から永遠まで」のように前置詞を伴う。ここでは新約聖書で言うような意味での「永遠の命」とは異なる。旧約の時代には長寿は神の祝福の一つであった。あるいは王個人のことにとどまらず、ダビデ王家の長命、永続と意味しているのも理解できる。
サムエル記ではダビデがサウルに追われたときに「命を求め」すなわち死から救われることを願い、神はその祈りを聞いて下さっただけでなく、ダビデ王家の永続を約束してくださった。そのことを全体として想起しているのかもしれない。
「あなたの救いにあって」は1節と同じ言葉。王の栄光は彼自身や彼の持ち物ではなく神による助け(救い)にある。
「栄光」も「栄え」「輝き」もどれも栄光を現す言葉であるが、後の二つは主に詩文で用いられる。栄光は神が与えるもの。それは、真に栄光あるお方は神であるから。神に立てられた存在として、また神の代理者として民の上に立てられた者として、王にも神の栄光が付与される。神の民も神の栄光を表すべき存在である。
「彼の上に置く」は、神が王権の象徴として王冠を置かれるのに対応している。形だけの王ではなく、神に立てられた王としての威厳をも与えて下さる。
「置く」は「似ている」という動詞と同音異義語で、詩文においてのみ使われる。
「祝福」も「置く」も3節に出てくるのと同じ言葉。
「とこしえまで」は4節に出てきた、永遠を現す二つの名詞の内の一つに、前置詞をつけている。
「御前にある」は「あなたの顔と一緒に」。神の前にいることが喜び。「喜び」は1節に出てくる動詞の名詞形。「喜ばせる」は違う動詞。
5、6節で1〜4節に出てきた言葉を再び使うことで、ここまでが一つのまとまりであることを示している。
ここで口調が変わる。主語が動詞より前に置かれ、動詞も完了形から分詞形になる。時制的な意味よりも流れの変化のために使われている。また神を三人称で語っている。
「王」に冠詞がついているのは、ここから新しい段落に入ったが、言及されているのは前節までと同じ王だからか。
「信頼する」は「バータハ」。「主に」は前置詞「ベ」を伴う。同じ前置詞が後半では手段の意味で用いられている。 「いと高きお方」は一語(エルヨーン)で、神の呼び名の一つ。
「恵み」は「ヘセド」。神の愛を現す言葉の一つ。ここでは特にダビデとの契約を守り、彼の王座を堅くしてくださること。
「動かされる」は「揺り動かす」という動詞。「揺るがない」(新改訳)でも良いが、受動形として訳す方が良いだろう。再び未完了形に戻る。ダビデの王座が揺るがないのは神の恵みによる。人間的に見るなら北王国の王家のように直ぐに滅んでしまってもおかしくないのが、神の恵みの故に永く続き、キリストによって永遠の王座とされた。前節までは王に与えられた祝福の積極的側面を描いたが、ここからは的によって揺り動かされないという消極的側面を描く。
主語が「あなたの手」になることで動詞も男性形から女性形に変化して単調さを防ぐ。「手」と「右の手」(直訳は「右」)はしばしば並行関係に置かれる。「手」が見つけるのではなく、神ご自身がするのだが、一部をもって全体の代表とするのは詩の表現法の一つ。
「敵」と「憎む者」も同義語として並行関係に置かれることがよくある。「あなたを憎む者たち」は直訳では「あなたの憎む者たち」だが、分詞が男性複数形なので憎んでいるのは神ではなく、神「を」憎んでいる者たちを指している。
「見つけ」るのは次節以下で神の裁きを下すため。
「御顔の時」は、5節と違い、神の怒りの顔。後半で神の「怒り」が出てくるので、「御怒り」としないほうが良い。
「燃える炉」の譬えによって神の怒りを表現している。神が敵(8節)の上に火を置くと、その火が彼らを焼き尽くす。
「実」も「種」も子孫を表す用語。前節の「火で焼き尽くす」は、具体的には子孫を滅ぼすことで実現する。
後半は動詞が省略されているが、詩文では不要な接続詞「また」を用いて一行目と結びつけることで動詞の代わりとしている。
「人の子ら」は「アダムの子孫」とも訳すことができ、人類全体の中から消し去るということ。「地」と「人の子ら」は同義語ではないが並行関係に置かれている。
接続詞「キイ」は強調の意味で「まことに」と訳す場合もあるが、条件説として「ときに」や「たといしても」と訳す場合もある。ここは後者とした。
「(悪を)広げ」はあまり良い訳ではない。動詞の意味は「手を差しのばす」ということ。「悪の手を及ぼそうとする」という意味。
「悪意」は目的とか意図を意味する言葉で、ここでは悪い意味なので「悪意」とした。「思う」は悪いことだから「企てる、企む」としても良いだろう。
前節では神からの裁きを受けることが述べられているのに対し、ここでは仮定ではあるが彼らから神への反撃を語っている。
「彼らに背を向けさせ」は直訳すると「彼らに肩を置き」で理解しにくい。「肩」は背中の意味だろう。彼らに背中を置く、すなわち彼らをして背中を向けさせる、ということ。具体的に戦いで敗走することを描いている。
「弓弦を彼らの顔に向けて堅く張る」も敗走する者たちを追って矢を射ようとしている情景。「顔に向ける」ためには「背を向け」てはできないので、「肩を置く」を「仰向けにする」と理解する(参照、小林師)のは字義通りに解釈しすぎている。二行を矛盾する動作と見る必要は無い。敵を打ち破ることの詩的な表現であり、必ずしも同時の出来事でなくても良い。もちろん、「背を向けて逃げている途中で、後ろを振り返って顔を向けたときに矢を射る」と考えても良いが、それでは散文的である。「顔を」狙うのは背中を狙うのが卑怯に感じるからかもしれない。敵としては、自分の顔に向かって矢がねらいを定めているのは恐怖である。
前節で神に逆らって悪を行おうとしたが、逆に敗走するようになることを語っている。
「高くあって下さい」は「高い、高くある、高くなる」という動詞の命令形。「自らを高くして下さい」、「あがめられますように」という意味だが、再帰的な意味は無い。命令形を使うのはここが初めて。詩全体として祈りであるが、具体的に願いを述べているのはこの節だけで、あとは神が祝福し助けて下さることを述べている。ここは、神が隠れるのではなく自らを高くして姿を現してくれるなら、助けて下さるのは確実であるとの信頼に基づいて、「高くあってください」と願っている。
「力ある御業」は直訳では「力」だが、前半の「力」とは別の言葉。
「歌い、また誉め称え」は二つの動詞を並記している。「〜しよう」と訳すのが普通だが、「あなたの」という代名詞が入るため日本語ではおかしな意味になってしまうので、直説法として訳した。「神の力を、さあ誉め歌おう」というニュアンス。この詩篇では初めて一人称が登場し、祈りから賛美の呼び掛けとなって結びとなっている。
1〜6節 王を祝福される主
1〜2節 神と王の関係
1節 王は神を喜ぶ
2節 神は王の願いを聞かれる
3〜6節 神からの祝福
祝福、栄光、長命、栄光、祝福
7〜12節 王を救われる主
7節 王の信頼
8〜12節 敵を倒す神
8節 敵を見つけだし、
9〜10節 滅ぼし尽くし、
11〜12節 敗走させる
13節 賛美による結びのことば
王と神の関係は国全体に及ぶように、クリスチャンの祝福は周囲に及ぶ。神を喜び、神に喜ばれる生活をしたい。どのような「敵」が襲ってきても、神に信頼する者は揺るがされることがないから。