絶望の中の信仰
「メシヤの受難の詩篇」と呼ばれ、十字架の預言であると言われる。直接的には、絶望するほどの苦難の中で信仰による希望を見いだした詩である。前半は苦しみのなかで神に助けを求める嘆きの祈り。祈っても答えられない絶望感の中で、なお神に信頼している。後半は180度変わって、賛美に溢れている。いったい、どこで嘆きから賛美に変わったのだろうか。
「暁(曙)の雌鹿」は大変に美しい訳。しかし、具体的に何を意味するかは不明。そのような名前の曲があったのだろう。詩篇の内容とは関係が無いように思われる。
「わが神」との呼び掛けを二回繰り返し、切実さを表している。神を「わが神」と呼ぶような関係であるのに、その神から「捨てられる」沈痛な思いが感じられる。
「どうして」は疑問詞「何」と前置詞「のために」の組み合わせで、「何のために」が直訳。理由が分かればどんな苦難にも耐え得るのだが、それが分からないために、ますます苦しみが増す。
「私を捨てたのですか」は完了形で「あなたは私を捨てました」だが、前の疑問詞と組み合わせて訳している。時間的な意味で過去の出来事を述べていると考えたり、あるいはもう詩人は神から捨てられてしまったという事実を述べていると見るよりも、詩人がそのように受け止めていると理解するほうが良い。「捨てようとしているのですか」ではなく、「私はもう捨てられた、でも、どうしてですか」。絶望の中にいるのだが、しかし、このように「どうして」と呼びかけるという関係が残されている。祈る者にとって、絶望も終わりではない。
前半のヘブル語を音写すると「エリィ、エリィ、ラマァ、アザブターニィ」となる。マタイ27:46では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、マルコ15:34では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」となっている。これは、アラム語の発音になっているためで、マルコは全体がアラム語、マタイは前半だけヘブル語となっている。キリストが実際にどちらの言語で叫んだかは分からない。二つの言語は親戚関係にあり、アラム語は日常会話で、ヘブル語は宗教的あるいは正式な場で用いられた。日本語の文語と口語の関係よりもう少し隔たりがあるが、そのような雰囲気だと考えれば理解しやすい。
後半は名詞節で動詞は出てこない。日本語訳では名詞を動詞的に訳し、またいくつかの語を補って、理解を助けている。
「私の救いから」の前置詞「から」は分離を意味するので、動詞「離れて」を補うことは間違っていない。主が「私の救い」であるのが本当(詩篇62:1、2)であるはずなのに、遠く離れて、「私の救い」ではなくなってしまった。「助ける」(口語)と訳すと補助的だが、もっと本格的に「救う」のほうが良い。
「遠く」は距離が離れている状態の形容詞。男性単数の形なので、誰が離れているのかと言えば、文脈では男性単数は「わが神」であると分かる。日本語(や英語)では「あなたは遠くにいる」と主語や動詞を補って理解する。ここも実際に神が遠くにいるのではない。神は遍在のお方である。むしろ、詩人がそのように感じている、ということ。
「わたしの嘆き」の「嘆き」は、ライオンなどが吼える音を意味する。人間の場合は苦しみの中で口からでる音、嘆きの声。「嘆き(の言葉)を」聞かない、と動詞を補う訳もあるが、原語は名詞節。前置詞すらも省略されている。直訳すると「私の救いから(あなたは)遠く、私の嘆きの言葉」。
1節全体では、前半、後半がそれぞれ二分でき、その四区分のどれもが、最後の音が「ィ」である。文法的には破格だが、音声的に前後半で並行関係を作っている。その密接な関係があるから、前置詞や動詞が省略されていると理解して補うことが可能なのである。
「私の神よ」は、前節の「我が神」が単数形の「神」だったのに対して複数形が使われている。これは「神々」ということではなく、単数形の「エル」も複数形の「エロヒーム」も共に神様に対して用いられた。前節の方が短く(エリィとエローハイ)、二度繰り返すことで切迫感、緊急性を示したのに対し、本節ではもう少し落ち着いた、理性的な訴えとなる。
「呼ばわる」は「呼ぶ、呼びかける」という動詞で、ここでは祈りを意味している。
「昼」は「日」とも訳される。日中に限った意味で「一日中」という意味ではないだろうか。
「答えない」は祈りに対して。
「夜もまた」は、接続詞「また」を強調的に訳している。昼もダメだったが、夜もまた答えてもらえない。
「沈黙はない」は動詞が使われておらず、否定詞と名詞の組み合わせ。動詞のように訳すと「(私は)黙りません」となり、夜も祈りが止むことがないという意味。前半では「神が答えない」という否定文だったので、それと並行する後半でも否定文が用いられているのだが、「黙る」のは詩人の行為となる。新共同訳は後半も神の行為にするために「黙ることをお許しにならない」と意訳している。口語訳「夜よばわっても平安を得ません」も前半と並行させるための意訳。
「あなた」は強調されている。前節で、いかに答えてもらえなくても、それでも「あなたこそ」神である、との信仰。
「聖なるお方」は原文では形容詞なので「あなたは聖い」とも訳せる。神の呼び名として用いられる場合は「聖なるお方」となる。「聖」は神の本質であり、超越したお方であって、人間が近づくことはできないお方。祈りに答えられない時でも、神の聖性に変わりはない。新共同訳の「聖所にいまし」は、確かに「聖」は「聖所」の意味でも用いられるが、前置詞も動詞もないので、適切ではない。多分、後半と合わせて神殿における礼拝の場面を想定しているのだろう。
「座しておられるお方」は「座る、住む」という動詞の分詞。「座しておられる」または「住んでおられる」。
「あなたに」が文頭に置かれ強調されている。他の何者でもなく「あなた」に。
「父たち」は先祖の意味。
「信頼しました」は前半も後半も同じ動詞を使っている。後半のほうは信頼する相手を省略しているが、もちろん同じ「あなたに」。
「助け出す」は「逃げる」という動詞で、使役的に「逃れさせる」ということ。危険の中にいるものを逃れさせる、という意味で「救う、助け出す」などと訳される。
5節でも「あなたに」が最初に来て、強調されている。何でもいいから信心して救われた、というのではなく、信頼した時に救ってくださった「あなた」が4、5節では焦点を当てられている。
「叫ぶ」は2節の「呼ばわる」の類義語で別の言葉だが、ここでも祈りの意味で使われている。「助けられた」も前節の「助け出す」と発音は似ているが別の言葉。
「あなたに彼らは信頼し」は前節の最初と全く同じ。これによって、4節と5節がひとまとまりであることが分かる。
「恥じなかった」は日本語としては「恥を受けなかった」のほうが分かり易いが、能動態なので受動的にしなかった。
詩人は、神が信頼する者を必ず助けてくださるお方であることを信じている。だからこそ、神が自分を救ってくださらないことに絶望を思えるのである。
「しかし私は」が最初に置かれている。3節で「しかしあなたは」と始まっていたのに呼応している。3節からは神に目を向け、信頼する言葉が述べられていたが、この節では、それと対称的に自分に目を向け、その悲惨さを描いている。
「虫」を表す言葉は旧約聖書には多くない。ここでは無価値、蔑まれる対象としての比喩。同様の意味はイザヤ41:14に出てくる。
「虫です、人間ではありません」。もし、人間であったら、神は必ず祈りに耳を傾けてくださる。そうしてもらえないのは、自分が人間としての価値がない存在だから。その無価値な存在に対するさげすみの言葉が続いていく。
後半は名詞節となっている。「人のそしり」に使われる「人」は前半の「人間」とは違う言葉。ここれは特に意味の違いは意識されていない。むしろ、同じ言葉を使って意味が混乱しないようにしている。
「嫌われ者」は動詞の分詞で、名詞化している。侮られる存在、蔑まれる者、辱められる者。「嫌われ者」だと意味が少しずれるが、「蔑まれ者」は使われない表現なので、代用した。 「くちびるを突き出し、頭を振ります」は嘲りやからかいの表現。文化によって体のどこを用いるかが変わる。日本語なら「眉をひそめる、顔をしかめる」などがある。
8節は原文では代名詞「彼」が多様され、そのまま日本語に訳すと理解しにくくなる。直訳すると、「主に転がせ、彼に彼を助けさせよ、彼が彼を救われる、彼は彼を喜ぶのだから」。
「転がせ」は「ガーラル」という動詞で、地名ギルガルと関係する。大きな石をゴロっと転がすイメージだが、ここでは「信頼する」という意味で使っている。自分の問題を「転がして」神に委ねる、という意味だろう。同じような用法は他に見あたらないので、前後関係から「身を委ねよ」と訳すことが多い。
「助けさせよ」は4節で「助け出す」と訳されている言葉。「救う」は違う言葉で、猛獣の口から獲物を奪い取る、というイメージ。苦難の中から奪い取るように救ってくださる。
「彼のお気に入り」は意訳。「彼は彼を喜ぶ」。
この節は命令形やそれに準ずる動詞を用い、三人称を多用しているなど、他の節と様子が異なるので、前節の人々の嘲りの言葉として理解するのが良い。
「実にあなた」は、強調的な代名詞が述語の前の強調的位置に置かれ、さらにその前に接続詞キィが強調的な意味で使われている。前節で人々が神と詩人との関係をあざ笑ったのに対し、神に対する詩人の絶対的な信頼を述べるために、ここまで強調している。
「生まれさせたお方」は「引き出す、どっと出る」という動詞の分詞形で、「生まれさせる」という意味では旧約聖書ではここだけに出てくる。詩文では珍しい語句が使われることが良くある。
「腹から」は普通は「母の腹から」という形で使われるがここでは「母の」が省略され、それが後半の最後で出てくる。
「安らかにおらせたお方」も動詞の分詞形なので、主語は前半と共通している。「信頼する」の使役形が使われ、「信頼させる、安心させる」という意味。同じ動詞を違う意味で使って変化を付けることも詩文では少なくない。新改訳や新共同訳の「拠り頼ませる」「ゆだねる」よりも口語訳の「安らかに守られる」のほうが情景としては良い。
10節の「胎」は前節とは違う名詞。後半の「胎」は前節と同じ。同じ意味で使われているが、同じ名詞を用いて単調にならないようにしている。
「投げられる」は受動態だが、「放り投げる、投げ捨てる」という意味の動詞。「委ねられる」とも訳されるが、他に例は少ない(詩篇55:23)。同じ前置詞を使って「くじを投げる」という意味もある。神様の手の上に運命を投げられた、すなわち「委ねられた」というニュアンスだろうか。並行している後半と比べると、神が詩人の神であるということと関連するので、身を委ねる、神の御手のうちにある、と理解するのが良いだろう。
「私の神」は1節で用いられた言葉と同じ。
「遠く離れる」は1節の形容詞と同根の動詞。「近い」の反意語。
「のです」は接続詞キィで、理由や強調を表す。原文では二回使われているので、訳でも二回繰り返した。
「助ける者」は分詞形。今までに用いられた救いに関わる動詞とはまた違う語が使われている。
12節から18節までは詩人が敵に囲まれ、苦しみを受けている様子を様々な比喩を用いて描いている。
多くの雄牛が私の周りを行き巡り、
バシャンの猛牛たちが私を取り囲む。
彼らは私に向かって口を開く、
ライオンが引き裂き、吼えている。
「雄牛」は詩人の敵の隠喩。力のある動物であり、ここでは数も多い。詩人が多くの敵に囲まれているようすを描く。
「周りを行き巡り」と「取り囲む」は同義語。
「バシャン」はガリラヤ湖の北東に広がる地域で、肥沃な地として描かれる。その地で育った牛も立派な牛だと考えられる。
「猛牛」は原文では「強い」(男性複数形)だけで、人間に対して用いることもあり、「強い者たち」と訳される。ここでは「多くの雄牛」と並行しているので「強い雄牛」の「雄牛」が省略されている、と理解するのが良い。
「彼ら」は前節の牛たち、すなわち敵たち。口を開いて襲いかかってくる。
「ライオン」。ここでイメージはライオンに切り替わる。口を開けたところから、噛みついて引き裂く、と、さらに恐ろしい敵になる。「牛たち」が複数であったのが「ライオン」は単数なので、直喩と見て「ライオンのように」とする訳があるが、詩文であり、もともと譬えであったのだから、途中から変化してもおかしくはない。
「引き裂き、吼えている」は両方とも分詞なので、「引き裂くもの、吼えるもの」、あるいは形容詞的に「引き裂き、吼えている(ライオン)」と訳すこともできる。ここはイメージが膨らんでいく様子を示したいので、名詞的ではなく進行形のように訳した。(註。現代ヘブル語では、動詞の完了形は過去、未完了形は未来、分詞形が現在の時制で用いられているが、聖書ヘブル語では必ずしもそうではなく、詩文ではさらに複雑で、動詞の形で時制を決めることはできず、あくまで文脈から判断する。)
「水のように」は前置詞「のように」を用いて直接の比喩となっている。注ぎ出されているのは血。次の「骨はバラバラになり」と共に、前節のライオンに引き裂かれた獲物の様子を描く。血が流れ出て、骨までバラバラにされる。
「心臓」は普通「心」と訳すことが多いが、ここでは血や「骨」に続いているので「心臓」が良い。人間の内側にあるものを指している。「胸」も腹と訳されることがある。9,10節の「腹」や「胎」とは別の言葉。個々では心臓のある場所として「胸」と訳す。
「蝋のように」も直喩。心臓が溶ける、とは物理的には理解しにくいが、血が流れ出てしまう様子を「溶ける」と表現しているのかもしれない。
「私の力」が文脈と合わないと考えて、字の順番を替えて「のど」と読む英訳がある。確かに「喉が渇き、舌が顎に付く」のほうが簡単だが、理由無しに言葉を変えることは問題である。力のありどころとしての筋肉のことだろうか。それが「乾く」のは前節で血が流れ出してしまったからだろう。律法を遵守して血抜きをした後の肉をイメージしているのだろうか。「土器(または陶器)のかけら」は一語だが、乾ききったものの比喩として使われている。
土器のイメージから肉体のイメージに移って、「舌」と「顎」が出てくる。血が流れ出て、喉が渇いた様。
「くっつく」はぴったりと着く様子で、創世記2:24で「(人が妻と)結びあい」と訳されている。
「死のちり」は具体的に何かは分からない。死んだものが置かれる地面のちりか。何であっても、詩人が死に近い状態にまで追いやられたことを表現している。
「あなたは私を置かれる」、ここで二人称が突然にはさまる。詩人が自分の苦しみの原因は神であると考えている。前後の節には二人称は出てこないので流れを乱さないためにこれを一人称の受動態と理解する訳もある。
「私の周りを行き巡り」は12節と同じだが、囲んでいたのが雄牛だったのが犬になっている。「悪を行う者たち」と並行している。見下した表現。
「群れ」は「会衆」とも訳される言葉で、宗教行事を行うときのイスラエルの群衆を指すが、ここでは人々の一群を意味する。
「囲み」はこの節の「行き巡り」とも、12節の「取り囲む」とも違う。
「ライオンのように」は議論を巻き起こしているが解決は見つかっていない。発音通りだと「ライオンのように」となるが、その場合、最後の行は動詞を持たないので、前後から意味を推測するのだが、目的語の「両手両足」と繋がらない。そこで、字は変えずに発音を一部変えて、「掘る、突き通す」という意味の動詞と考える。あるいは「引き裂く」と訳す。原文のままでも、詩文によく見られるように動詞が省略され、目的語と前後関係から類推して理解すると考えても良い。13節で、周りを取り囲み、口を開き、引き裂いた、という流れと、16節の「取り囲み」に続く動詞として、しかも「両手両足」に繋がる動詞を補うと、「引き裂く」が良いだろう。
「私の全ての骨」は、原文の語順では「全ての私の骨」。修飾語の順番は言語によって異なる。同じフレーズが14節に出てくる。
「私は数える」は「数える」の強意形で、「数え上げる」といったニュアンス。多くの訳(英訳、邦訳)で「数えることが出来る」としている。実際に骨を数えたと言うより、数えることができるほどに敵に負かされた状態を表現しているのだろう。
「目を留め」と「見る」は類義語。主語の「彼ら」は16節の犬(敵)たち。前半で「わたし」が骨を数える(見る)ことを述べていたのが、主語が「彼ら」に移行している。これで次節に滑らかに流れていく。前節でも主語が三人称複数だったのが、「私の手足」に焦点が移り、本節の「わたし」が導入されている。人称が目まぐるしく変わるようでいて、繊細な変化が含まれている。
「私の着物」と「私の衣服」は類義語で、大きな意味の違いは無いが、前者が複数形、後者は単数形を使っている。恐らく前者は分けることのできる衣服で、後者は分けられない一枚物なのでくじ引きをするのだろう。
「くじを投げる」は、さいころのように放って決めるから。くじ引きをする、サイをなげる、といった意味。
前節までの敵たちの描写に対して、「しかしあなたは」と始まる。新共同訳の「あなただけは」も良い訳。「しかし、あなたは主です」と訳すことも可能だが、「主」は呼格と理解する。
「離れる」は1節、11節と同じ語。否定詞プラス未完了形だが、否定の命令形と見る。 後半では神を「わが力」と呼んでいる。「力」はここだけに出てくる女性名詞で、男性形が詩篇88:5に出てくるのみ。
「救いのため」の「救い」は11節の「助ける者」と同根の名詞。「急いで来て」は「急ぐ」という動詞で、「来て」は意味を明確にするために補っている。離れていた(と詩人が感じていた)神に急いで近寄ってきて、と求めている。
「救い出して」は前出。4節、8節に出てくる。
「私の魂」は後半の「私の命(?)」と並行している。恐らく同じ意味で使われているのだろう。
「犬の手から」は16節の「犬」すなわち敵を指しているのだが、こちらは単数形。別のことではなく集合名詞的にとらえているのだろう。「手」は、力を意味する。
「私の命」は直訳では「私の唯一のもの」。たった一つしかない、無くなったらお終い、という意味で「命」と訳している。
「救ってください」は1節で名詞として使われている「救い」と同根の動詞。動詞としてはこの詩篇では初めて使われる。救いに関する語が何種類も使われ、苦境からの救いがさまざまな面から述べられている。
「ライオン」は単数形で、「野牛ども」は複数形。だが、「角」は双数形(二つで1ペア)なので、実際の数量ではなく、並行法における変化と見て良い。
「(あなたは)私に答える」は完了形だが、前半と結びつけて命令形として訳す。問題は、牛の角から救う、ではなく、「答える」であること。最後の語を切り離して、角の前にある接続詞「そして」を「もまた」と理解し、動詞「救う」が省略されていると考え、「野牛の角からも(救ってください)、あなたは私に答えてくださいました」とする訳もある。小林師は、そうすることで、22節以降の、突然のような賛美への切り替えの理由が、ここの祈りに答えられたという確信にあると解釈している。しかし、そうすると、なぜ詩人は「突然に」祈りが答えられたとの確信に至ったのかが疑問に残る。「答える」と「苦しみ」とが発音が酷似していることから、ここを「私の苦しみ」と読み、前節の「私の魂」、「私の命」と並行させ、「私の苦しんでいる(体)」を救って、と理解する者もいる。しかし、「答える」とは祈りに対してであり、祈りが答えられるのは救いと同じ事だから、「私を救ってください」と同義として捉える事も可能である。そうすれば、前半と後半がより強い並行関係になる。
前節の「助けてください、答えてください」に対し、もしそうして下さったら、という条件節と帰結節と理解すると良い。
「名を告げる」は、神の名前を詩人の兄弟が知らないと考えるのは不自然。「名」は本質を表すので、神がどのようなお方であるか、すなわち、祈りに応え、救ってくださるお方であることを伝えるのであろう。「兄弟」は直接の肉親だけでなく、同胞すべてをも意味することが出来る。
「会衆」も「兄弟」同様、同胞全体のこと。
「誉め称えます」は動詞ハーラル。名詞形が3節に出ている。この詩篇の中で始めて、詩人自身が「賛美をする」と語る。
「(主を)恐れる者たち」は分詞形ではなく形容詞(男性複数形)なので、主の恐れ(あるいは主への恐れ)と訳すことも可能だが、その後の命令形と合わせると、人々として訳すほうが良い。
「賛美せよ」は前節と同じ動詞。「崇めよ」は「重い」という動詞が元で、同根の名詞は「栄光」の意味を持つ。「賛美する」と並行する意味として用いられている。
「ヤコブ」と「イスラエル」も並行している。「全ての子孫」は同じフレーズを用いている。
「恐れよ」は最初の動詞とは違うものが使われているので、異なる訳語にしたが、意味は同じ。
24節は「彼」が何回も出てくるので、全て日本語に置き換えると意味が分かりづらくなる。
「まことに」は理由を表す接続詞として「からである」としても良い。
「苦しむ者」は形容詞で、同根の名詞が「苦しみ」。
「祈り叫ぶ」は「叫ぶ」という動詞の一つだが、助けを求めて叫ぶという意味。
「会衆の中」での賛美は、22節に呼応している。後半の「私の誓い」は22節を指すと理解できる。
「あなたから」は、賛美の源泉が主であること。つまり、主による救いこそが賛美を産み出す。
「彼を恐れる者たち」と、神を三人称で述べているが、前半で二人称だったのが変化している。
「果たします」はシャーラムという動詞で、完全にする、満たす、という意味から「誓いを果たす」としている。「平和にする」という意味もあり、そこから名詞「シャローム」が出来てくる。
「貧しい者たち」を主が養い満たすように、「尋ね求める者たち」は主を見いだして賛美する。一般的な真理として述べられている。
「どうぞ...生きますように」は三人称に対する命令形のようなもの。「いつまでも」は「永遠に」とも訳される。
「あなたがたの心」は、前半の「貧しい者たち」と「主を求める者たち」で、彼らの求めを神が聞かれて、救われたことを彼らが賛美している、その心を指す。賛美の心がいつまでも続くように。
「地の果ての全ての者」は特定の人々ではなく、後半の「国々の全ての民」と同じ意味。
「思い出す」は、新共同訳では「主を認め」とされているが、良い意訳。主が神であることを「思い出す」。
27節で、今まで詩人の同胞に限られていた賛美が、全世界に広がる。
「王権」は特定の「王国」である以上に全ての国に関する。イスラエルだけでなく、全ての国の王権は主に属する。
「富める者たち」は直訳では「脂肪の者たち」だが、26節と対比して「富めるもの」としている。貧しい者たちが食べ、伏し拝むように、富める者たちまでも賛美する者となる。
「塵に下る」は死ぬことの婉曲的表現。「長らえない」は「(彼の命が)生きない」にあり、冗長なので、言葉を変えた。死すべき者たちも神を拝み、賛美する。
「子孫」は単数形だが、特定の個人ではなく子孫全体を指す。同様に「代(世代)」も単数だが複数に訳している。
「語り継げる」は受動形。主語は「主」もしくは「主に関すること」、前者の方が良い。
「代々に」は直訳すると「その世代に」。次の世代、という意味でも良いが、その世代の子孫もまた伝えると考えると、「代々に」のほうが良い。
「行って」は「来て」でも良い。どこに行くか、あるいはどこからかは明示されていない。むしろ語調を整えるために付け加えられているように思う。
「宣べ伝える」は「宣言する」という意味。「主の義」は「主の救い」と同義語。
「生まれてくる」は「生む、生まれる」の分詞形。直前の民(男性単数)と結びついている。次の世代と同じ意味だろう。後半は動詞がないが、前半(「宣べ伝える」)と同じと考えて良い。前半では「彼の義」だったのが、後半では「彼がしたころ」となる。後者を前者を修飾している節と解釈して「主のなされた義(救い)」としても意味は通るが、並行関係が崩れてしまう。
1〜2 嘆きの訴え
3〜5 神は祈りを聞かれるはず
6〜8 祈りは聞かれず、苦しめられる
9〜10 神への揺るぎない信頼
11 助けを求める祈り
12〜18 詩人の苦しみ
19〜21 助けを求める祈り
22〜25 賛美の誓いと呼び掛け
26〜31 世界に広がる賛美
詩人は神への信頼を持ちつつも、助けられず、信頼しているからこそ悩む。切実に救いを求める祈りの中で、彼は賛美へと思いが向けられ、そこから祈りが変わり始める。
キリストは十字架上でこの詩篇の冒頭を叫ぶことで、22篇全体を告白している。それは、御子であられるお方が、父なる神に完全に信頼しつつ、捨てられるような苦しみを完全に受けられたこと、そして、その信頼(信仰)は死で終わるのではなく、賛美へと変えられ、「子孫」にまで広がっていくことを意味している。私たちの罪を背に負ったために嘆きの祈りをされたが、それは絶望ではなく、賛美の希望を失っていなかった。
詩人のように、私たちも苦難を味わい、絶望の淵にまで落ちることがあるかもしれない。しかし、御子もその苦しみを共に受けて下さった。だから主と共にいるとき、キリストの持っていられた信頼と希望をもいただくことができる。