「王の入城」
この詩篇では、真の王である主が「栄光の王」と賛美されている。一人称、二人称的要素はほとんど見られず、神について述べることで、会衆に対する賛美の呼びかけとなっている。 そもそもは、ダビデがエブス人の町であるエルサレムを陥落させ、そこを首都とし、契約の箱を担ぎ入れたときに、ダビデではなく主こそ真の王であることを賛美するために創られたのかもしれない。後には、神が王であるとの再確認をする意味となる。
多くの場合、「賛歌」が先で「ダビデ(の)」が後になっているが、ここでは順序が逆になっている。他にもいくつか同様のものがある。
「主のものだ」から始まっていて、強調が置かれている。世界が中心ではなく、神が中心であり、主である。主であり、王である神を謳う賛歌に相応しい書き出し。
「地」には冠詞が付けられているが、特定の地(イスラエルの地)ではなく、「世界」と並行しているので全地を指している。
「それに満ちるもの」は単数形で、満ちていること、あるいは満ちているものを指す。具体的には、「そこに住むものたち」(こちらは複数形)のこと。「全ての造られたもの」は神のものであるが、それは人間も例外ではなく、自分自身が主のものであると認識するところから礼拝が始まる。
「彼は」は強調的に代名詞が用いられている。もちろん神を指す。前節が所有者なる主、この節は創造者なる主を描く。
「諸々の海(の上に)」、「諸々の川(の上に)」は「海」と「川」の複数形で、(国の複数形が諸国のような)適当な日本語が無い。
「その基を据え」は「基を据える」という動詞に女性代名詞がついている。直前の女性名詞は並行的に使われている「世界」と「地」なので、どちらでも当てはまる。海の上に地面の土台があるというのは当時の人の世界理解。「上に」は「ほとりに」(1:3)とも訳されるので、必ずしも海の上に地面が浮かんでいることを表現しているとは限らない。詩的表現なので科学的な描写と比較するのは無理がある。中近東世界で海や川は世界の秩序を脅かす存在として恐れられていた。イスラエルの神はそのような存在(が実在したとしても、それ)をも「下に」治められる、王である。
「築いた」は「基を据え」と同じような意味。この節が述べていることは、創世記1章の三日目の記事で海と地とが区別され、植物および動物、そして人間が住むことが出来るようになったことと関連していると思われる。前節と関連させるなら、「住む者たち」は動物も含むが特に詩人を含む人間を指し、人々が生活できるように世界を造られた神を表している。創造の主は無秩序の神ではない。創造において神の知恵が豊かに表されている。
「登るのか」を口語訳は「登るべき者」、新改訳は「登りえようか」、新共同訳は「できるのか」と意味を加えている。原文には可能を示す言葉は使われていない。だが、1、2節で描かれた主なる神がおられる所に近づくことへの畏れから、本来それが許され得ない人間が「登ることができる」のか、という意味で、各邦訳は間違っていない。
「主の山」も「彼の聖所」も神殿を指している。ダビデの時代には契約の箱の置かれた幕屋。前半と後半は同じ事を意味しているが、後半の方がより強い意味を持っている。「主の山」よりも「聖所」のほうが神に近い場所であり、その山に登ることよりも聖所に「立つ」(平伏すのではなく)のはもっと畏れ多いこと。全体(主の山、聖所、登る、立つ)として礼拝を示唆している。
「清さ」は形容詞で、前半に動詞は無い。この形容詞を、そのような状態の者、と理解して「きよい人」と訳すことができる。「手」(直訳は両方の掌)は具体的な行為を意味し、汚れたものに手を付ける(つまり汚れた行いをする)なら手が汚れる。「魂」は内面に関すること。二つの「きよい」は別の言葉だが、特に大きな違いは無い。最初のが「罪のない」清さ、後のは「純粋な」清さという意味で用いられることもある。ここで使われているのはホーリネスを意味する「聖」ではないが、それと意味が一部重なる「きよさ」である。神が礼拝者に求めておられる姿が述べられている。旧約においても、礼拝は単なる儀式でささげものさえ持っていけばそれで良い、というのでは
なく、礼拝者の内面的、また行為におけるきよさを求められる。
「その人は」は関係代名詞。前半のような手と心を持っている人を、さらに詳しく描写する。
「空しいこと」は、十戒の中で「みだりに(神の名を唱えてはならない)」と訳される言葉。空虚、無意味、あるいは空しい存在(偶像)。
「(魂を)向ける」と訳されているのは「持ち上げる」という動詞で、いろいろな名詞と結びついて慣用句として使われることがよくある。魂を持ち上げるのは、その魂の願い、心からの願いを向ける、という意味で理解されている。
<ここは読まないこと>「彼の(魂)」は原文では「私の」で、明らかに文脈に合わない。ユダヤ教の伝統的な読み方(マソラ)では「私の」となっているが、いくつかの写本と古代訳では「彼の」となっている。単純にマソラの間違いと考えれば簡単に解決するが、問題はもう少し複雑。元々が「私の」であったのを文脈から「彼の」と読み間違えることは考えられるが、その逆は可能性としては少ない。またマソラ学者たちもこの問題に気が付きつつも修正はしていない。逆に古代訳はいくつかの写本では、分かりやすい方に変更することがある。もし「私の」が正しいとすると、詩人が思わず「我が魂」と言ってしまったということか。あるいは「私の魂を空しいもの(偶像)に向けさせる」という理解も可能。現段階では解決できない問題。<だから読んではいけない>
「持ち運び」は「持ち上げる、運ぶ」という動詞。受ける、という意味は本来は無い。神からの祝福は、良いことをした褒美にいただくとか、心も行いも清いという優れた者だから貰える、というのではない。心の清い(従って行いも)人は、すでに受け取っている祝福を失うことなく、いつも持っていることができる。空しいことに心を向けるときに祝福を失ってしまう。
後半には動詞がないが、前半と同じものが省略されていると考える。「義」も自分の正しさではなく、救いの神からいただいたもの。ここでは「義」が「祝福」と並行関係に置かれている。「救いの神」は礼拝者と神との関係が示されている。神は救ってくださった、だから礼拝をし、慕い求める。「救いの」を付け加えることで、後半が前半に比べて短すぎないようにしている。
「これ」が最初に置かれているので強調と見なし「これこそ」と訳す。「これ」とは3〜5節で述べられている者のこと。
「求める」と「慕い求める」は類義語で、ほとんど同じような意味。並行法では後半により強調が置かれることが多いので、ここも後者を強めて訳している。
「世代」は一つの時代の民族全体を指す言葉。新改訳の「一族」も良いが少し小さなグループのイメージがある。
「あなたの顔」と突然に二人称になる。もちろん神を指している。詩文では人称の唐突な変化は良くあることなので、ここでも特に問題ではない。
「ヤコブ」の取り扱いが難しい。「ヤコブよ」と呼格とすると、直前で「あなた」と神に呼びかけているので、「神」=「ヤコブ」となってしまう。そこで「ヤコブの神」とする翻訳がいくつかある。ここでは「これ」及び「求める者たち」と同格と理解する。「すなわち、ヤコブである」という意味。ヤコブはイスラエルの別名。創世記のヤコブは「押しのける者」だったが、神の祝福を必死に求めた。
「セラ」の意味は不明。いくつかの候補のうち、ここでは「休止符」あるいは「ここから調子を上げる」という意味が当てはまるが、10節のあとのセラの意味が分からなくなる。10節が次の詩篇とつながっているというのは、25編の形式から考えて難しい。
「門」は複数形だが、適当な日本語が無い。「お前たち」が受けているので、複数であることが文脈で分かるので、普通に単数形に訳す。この門が何の門かは分からない。神殿の門、天の「神殿」の門、あるいは「エルサレム」(実在の、あるいは天の)の門。人格化して用いられている。実際は門に対しての言葉ではなく、門に代表される街(民)全体のこと。
「頭を上げよ」はいろいろな意味で使われる。ここでは寝ている(休んでいる)状態の「門」に対して、王なる神の入城に備えるように命じているのだろう。「上げよ」は4節、5節でも使われている動詞。
「(とこしえの)戸」も複数形。永遠の戸が何を指すかも不明。「とこしえ」を「いにしえからの」と理解して、ずっと閉じられたままの古い門と理解することもできる。現代のエルサレムにも閉じたままの門があり、ユダヤ教ではメシアの来られるときに開かれるという伝説がある。
「自分を上げよ」は受動態、もしくは再帰形。「上がれ」でも同じ事。「開く」という動詞が用いられていないが、「門が上げられる」とはどのような構造だったのだろうか。
「実に」は、接続詞を強調として訳している。前半と結びつけ、上げる理由を述べていると理解できる。(王が入られるのだから戸を上げよ)
「栄光の王」は、本来、王は栄光ある存在であるから、ここでは真の王としての栄光を述べている。
「誰」は3節と同じ。「この」は6節と同じで、今度は人間ではなく神について語っている。
「強く、かつ勇ましい」は類義語を重ねている。「戦いに勇ましい」は直訳すると「戦いの勇ましさ」。王としての最大の働きは外国からの敵に当たって、国を守ること。戦いに強いことは乱世においては王として必須の条件。
神が王であるとは、どのような存在に対しても勝利者であられること。
7節とほとんど同じ。違うのは二カ所。まず、「自分を上げよ」(受動態もしくは再帰形)だったのが「上げよ」(能動態、ただし動作の対象が書かれていない)となっている。意味は同じだろう。もう一つは「入られる」で、発音はまったく同じだが、9節の方が一字短い形が使われている。これも意味上の違いは無いとおもわれる。
(ほとんど)同じ行(節)を用いるのは、リフレイン(繰り返し)という文学的技巧だろう。効果としては強く印象的な呼び掛けを可能にしている。
これも、前半は8節と似ている。違いは。強調的な代名詞「彼」が10節では挿入されている。後半は、8節のように同じ事の繰り返しではなく、7〜10節のまとめである。また、前半と後半がゆるやかな並行関係を持っている。それは「誰か」との疑問に対しての答えを述べているから。
「万軍の主」は主の呼び名の一つで旧約聖書でよく用いられる。「万軍」は天の万象を指すとの理解もあるが、天使の大軍団を指すとの理解が一般的。
最後の「セラ」に関しては6節参照。
1〜2節 主なる神
1 世界の所有主
2 世界の創造主
3〜6節 主の山に登る人
3〜4 主に近づく人の条件はきよさ
5〜6 主に近づく人の祝福:結論「主を求めよ」
7〜10節 王なる主の入門
7〜8 勝利者なる栄光の王
9〜10 万軍の主こそ栄光の王:結論「主を迎え入れよ」
全世界の主である神に近づくことは畏れ多いことであり、祝福に満ちたことである。人が主に近づく(礼拝する)とき、同時に、神も人に近づかれ、王として入ってこられる。真の王、栄光の王であるお方を迎えることが求められる。
23篇の恵みの世界、そこに入るための条件は十字架(22篇)で、それはキリストがすでになして下さった。その恵みを受けるために私たちがすべきこと、それが24篇、すなわち、主を慕い求め、王なるキリストを心に迎え入れることである。