「救いを求める祈りを教える」
アルファベット詩篇のひとつ。一部を除いてきれいに文頭がアルファベット順に並んでいる。この形式の詩篇の特徴として、順番を整えるために、内容的には一つのテーマが様々な形で現れてくる。覚えやすいため、教育的な意図もあり、苦難の中で救いを求める祈りをすることを教えるために使われる。深い悩みの中にいるときに人はしばしば祈ることも難しくなる。この祈りを順に唱えることで、神に心を向けることが出来たら幸いである。
「あなたに(です)」が文頭に置かれて、強調されている。その「あなた」が誰であるかを次の語「主よ」で明らかにしている。「主よ、私はあなたに魂を向けます」という通常の語順よりも、より切実な印象を与える。(ヘブル語の語順では、「主よ、私は向けます、私の魂を、あなたに」が一般的な語順。)
「仰ぎ向けます」は「持ち上げる」という動詞。魂を上に向けて、すなわち神に向けて持ち上げるので、「仰ぐ」あるいは「望む、求める」などに意訳できる。24:4に同じ表現が使われている。 <ここは無視すること>「ああ、私の神よ」と呼びかけている。マソラ(ユダヤ教の伝統的な読み方)では、この語を次の節の最初に置いている。しかし、この詩篇がアルファベット詩であることを考え、また、2節の並行法を考慮して、1節の終わりにあるほうが良いと思う。問題は、他にその読みを支持する写本や翻訳が無いこと。<読まないほうが良かった>
「私の神よ」を除けば、この節は整った並行関係を成している。前半は、前置詞句、完了形動詞、否定詞付きの未完了動詞、後半は逆順で、否定詞付きの未完了動詞、分詞、前置詞句。
「あなたに」が動詞より前に置かれ、強調されている。「私が信頼する」よりも、私が信頼しているのは「あなたです」、「他でもない、あなたです」というニュアンス。
<ここは読まない>「私は信頼するのです」が完了形になっているので、「私は信頼しました、(だから)私を恥じさせないでください」と読むこともできるが、詩文では完了形・未完了形が特に時間的順番を示すとは限らない。むしろ、違う形を用いることで、二つの動詞(信頼する、恥じさせない)の関係を主従としている。どちらが主かは、後半で同じ形が使われている未完了形のほうと考えられ、完了形の方は「信頼した(ので)」という理由か状況を示すと考えられる。<かなり専門的な話でした>
「私を恥じさせないでください」は直訳では「私は恥じない」。後半が「敵に喜ばせないでください」と三人称に関する命令形(使役の命令形のようなもの)と理解されるので、それに合わせて、こちらも神に対して「恥じさせないで」と訴えていると理解する。「神を信頼する者を、神は恥じさせない(辱めない、恥を見させない)」というのは詩篇全体、あるいは聖書全体を通して繰り返される真理である。
「大喜びさせないでください」の動詞は「非常に喜ぶ」。敵が喜ぶということから「勝ち誇る」とする訳が多い。
「私の敵たち」が誰であるかは不明。だが、クリスチャンにとっての真の敵である悪魔に大喜びをさせないようにしたい。
「実に」は追加や強調を意味する語、「・・もまた」と訳すことが多いが、ここでは前節から導き出される結果としての強調と理解する。
「待ち望む者」、神を信頼し、神からの救いを忍耐して待つ者たち。この節では「信頼する」と同じ意味で用いられている。「全て」は一人の例外も無いことで、意味を強めるために加えられている。また、前半、後半の長さのバランスをとるのにも役立っている。
「恥じることはありません」と直説法に訳している。前節の「恥じさせないでください」とは、同じ未完了形でも、違う否定詞を使っているので、片方を命令(祈願)としたなら、もう一方は直説法が良いと思う(新改訳参照)。
「恥じるのです」は前半と同じ動詞で否定詞を伴わない。前半と後半のコントラストを産み出している。「Aは恥じない、Bが恥じる」
「いたずらに」は「空しく」という副詞。十戒に出てくる「みだりに(むなしく)」(詩篇24:4も)とは違う語。新改訳の「ゆえもなく」も良い訳。
「欺く者たち」には詩文では普通省略される冠詞がわざわざ付いているので、「こそ」と訳した。ところで、なぜ「欺く」が「待ち望む(信頼する)」と対比されているのだろうか。信仰者は苦難の中で神に望みを置いて堪え忍ぶが、神に逆らう生き方は、生きた神にではなく空しいものに心を向け、自分を欺き、そのゆえに他者をも欺く。
「道」と「小道」のほうが直訳だが、口語訳の「大路」と「道」は秀訳。
「主よ」が無い方が前後半の長さのバランスが取れるが、この節から話題(教え)が変わるので、ここであらためて神に呼びかけている。
「導き」は「道」(前節)と同じ語源の動詞で、「足踏みする、歩く」という意味。使役形なので、直訳すると「私を歩かせてください」。
「(あなたの)まこと」は「エメス」で、動詞アーマン(アーメンの語源)から出来た名詞。「をもって」は「うちに」という前置詞なので、「あなたのまことのなかを歩かせてください」と訳すこともできるが、そうすると続く「教えてください」と繋がらなくなる。
「一日中」は「その日の全て」。口語の「ひねもす(終日)」は美しい言葉だが残念ながらあまり使われなくなった。詩文では古い(しかし、短く適切で、かつ美しい)言葉が使われることが多いので「ひねもす」のほうが好ましいのだが。
<ここも読み飛ばす>原文(マソラの写本)ではワウの部分は二行目から始まっているが、ヘイの部分が短すぎるので、いくつかの写本に従って、「あなたを」の前に「そして」を付けて、最後の行だけをワウの部分と理解する。<読むなと言ったでしょ>
「思い出してください」から新しい話題が導入される。「思い出す」、「あわれみ/いつくしみ/恵み」がそれである。また、次の節で「罪(とその類義語)」が始まる。
「憐れみ」は「愛する、憐れむ」という動詞から派生した名詞だが、単数形では「子宮、胎、腹」という意味(男性名詞)で、複数形にすると「憐れみ、愛情」となる。母親が胎の中の子を愛するように愛する、という意味。
「慈しみ」は「ヘセド」、変わることのない愛と誠実を意味する。神の御性格を示す重要な語の一つ。何のために神の愛(憐れみや慈しみ)を思い出して欲しいのかは、11節で明らかにされる。その結論に向かって、話題が展開していく。
「いにしえ」は「とこしえ、永遠」とも訳される言葉。過去にも未来にも使う。ここでは過去の永遠なので「いにしえ」。神の愛は永遠の昔から常に存在する。それは神が本来持っておられる性質だから。後半には動詞がないため口語訳では「絶えることがない」、新改訳では「あった」を補っている。新共同訳のように「とこしえの憐れみと慈しみ」とするのは省略し過ぎ。
「これら」は男性複数形の代名詞なので直訳では「彼ら」。直前の男性名詞は「慈しみ」と「憐れみ」。どちらも複数形なので、どちらか一方を指すと考えることもできるが、ここでは両方を指していると考える方が自然だろう。
「若き日」は遠い過去ということではなく、これまでの人生全てを指す。
「罪」と「背き」は共に罪を表す類義語。「罪」(ハタア)は「し損なう、足りない」という動詞で、的を外すということから、神が人に与えた目標から外れる行為、すなわち罪、だと説明される。「背き」(ペシャア)は反逆するということ。11節の「罪」は「アーボン」で、「咎」、その結果としての「罰」を意味する言葉。ただし、これらの語はその細かい違いよりも、ほぼ同じ意味として用いられている。
「私の背き」には「若き日の」が付いていないが、だからといって過去ではなく現在の罪ということではない。同じ事を言うのを省略しているのだろう。共に「思い出す」という動詞の目的語となっているので、どちらも過去の罪を指す。
「慈しみ」は前節と同じ語。裁きの心に従って思い出すなら、人間は罰せられるほか無い。慈しみの愛によって思い出してもらうことで、生きることができる。私たちが神の御前に行ったとき、十字架の贖いの故に神が慈しみに従って私たちを裁いてくださる。「思い出さないで」と言っても、神は全てのことをご存じであるのだが、「赦す」という約束の御言葉の故に、敢えて思い出さないでくださる。人間の赦しは不完全なため時々思い出すかもしれないが、神の赦しは完全に『忘れて』下さる。
「あなたは」はここには日本語として不必要な代名詞だが、原文では強調されている。「例えほかの誰かが思いだして自分を責めたとしても、神よ、あなたは思い出さないで、赦してください」という意味の強調。
「恵み」は「トーブ」(良い)という意味の語で、神の人間に対するあらゆる善意を指す。
「恵み深く」は前節に出てくる「恵み」(トーブ)で、直訳では「主は善い(良い)」。前節からの流れで「恵み」と訳すが、「主は恵み」では分かりづらいので「恵み深い」と訳す。
「かつ正しい」、神においては恵みと正しさが両立している。それが可能なのは(十字架において完成する)贖いによる赦しがあるから。しかし、罪を赦されるからといって、罪を放っておくのではなく、救われた罪人に対して正しい道(生き方)を示される。
「指し示す」は「放る」という動詞で、指示を投げかける、ということから「指示する、指し示す、教える」という意味で使われる。「その道を」は定冠詞付きなので、「その」道、すなわち神の定めた道(生き方)。「の中に」という前置詞がついているので、その道の中に指示を投げて方向を指し示す、ということだろう。次の節で具体的な意味が展開される。
「導く」は5節と同じ言葉。
「貧しい者」は「へりくだる者」とも訳される。貧しい故に弱く、従って強い者から虐げられる。また身分が低いのでへりくだっている。ここでの貧しさは経済的な意味よりもむしろ神の前にへりくだる貧しさである。山上の垂訓での「心の貧しい者」と通じる。
「公義」はミシュパトという語で、「裁き」とも訳される。ここでは文脈から裁判の意味よりも神の正しさ、(正しい)道と関連して「公義、公正」と訳す。
「彼の道」で、「彼」は神を指す。「道」は「導く」と語源が同じ。意味の上では「公義」と並行しているが、発音としては「導く」と対応している。
「道」は4節で「小道」と訳されている言葉。複数形だが、神の道がいろいろある、という事ではない。神の道自体は一つであっても、罪人たちはそこから離れているため、彼らに指し示す道は各々の状態によって異なる。しかし、どのような道を示されても、そこに神の慈しみと真実が必ずある。
「慈しみ」は6節と同じ。「真実」は5節の「まこと」と同じ。
「契約」と「証し」は共に「律法」を指す。十戒の石の板が入れられた箱を「契約の箱」、「あかしの箱」、石の板を「契約の板」、「あかしの板」と呼ぶ。神の御旨を表す律法、すなわち御言葉に従って生きる者にとっては、主の示される道は慈しみとまことに満ちているが、御旨に逆らって生きようとするときに主の道は窮屈なものとなる。
「御名」は前節までの「恵み深く、正しい」神のことを指す。恵みと義の神であるから、それにしたがって、赦してください、ということ。神の「名」は神の本質を表す。
「咎」(7節参照)は、罪の結果の罰をも意味するので、罰を受けることを免れさせて下さい、という意味にもとれる。
「赦す」は常に神が主語(主体)である。神以外に赦すことの出来るものはいない。元々は「ふりかける」という意味で、きよめの血(もしくは水)をふりかけて清めるという儀式から、罪の赦しを宣告する、という意味で使われるようになった、という説がある。
「大きい」、罪が小さかったら赦されなくても良い、ということではない。むしろ、どんな罪であっても、その本質(神に逆らうこと、的はずれな生き方、神の罰を受けるべきこと)に気が付くならば、それが自分ではどうすることもできない、「大きい」ことに気が付く。自分の罪の重大さに気が付いて打ちのめされた、へりくだった者を神は許してくださる。神の正しさから離れて生きていると、罪の恐ろしさに鈍くなり、その大きさが分からなくなっている。御言葉の光により、また聖霊の助けによってのみ罪が理解できるようになる。救われて、神の聖さに近づけば近づくほど、自分の罪の深さを自覚するようになる。詩人の告白はその意味である。
「誰か」は質問というよりも、そのような人となることを聞く者に決断を迫っている。罪の大きさの故に自分はダメだと諦めるのではなく、主を畏れる生き方、主が示される道を選び取って行く決断が求められている。
「これは誰か」は日本語としてはスムーズではない。「いったい誰だろう」という強調がある。「これ」を具体的に示すのが以下に続く。「これ」すなわち「その人」。
「彼は彼に」は分かりづらいが、前後から意味は確定する。「神はその人に」。
「道を示し」は8節で「道を指し示し」と訳されている言葉。
「彼はそれを選ぶ」で、「それを」は原文には無いが、「道を示し」に出てくる前置詞が前後の動詞の両方に結びつく(詩文では珍しくない現象)と理解して付け加えた。この動詞を関係節と理解して「選ぶべき道」とすると日本語としては分かりやすいが、原文の意味が弱まってしまう。
12節に述べられた人が受ける祝福が13、14節に展開する。
「魂」はその人の内なる存在であり、その人そのものを代表する。魂が平安(祝福)のうちにいるのでなければ、いくら肉体が、外面的に良い状況にいたとしても、真の幸いではない。
「幸い」は「良い」という言葉で、「善、良いこと」から様々な意味に用いられる。
「宿り」は「夜を過ごす」という意味。夜、野外にいると周囲には危険がある。そのようなときに危険を避けて平安のうちに宿る、というニュアンス。
「子孫」が単数形だが、この場合は特定の個人ではなく、子孫全体を集合名詞的に扱っているのだろう。もちろん、子孫であればそれでよいのではなく、その子孫も正しい道を選び取るように教えなければならない。正しい生き方は子孫に受け継がれていくべきことである。
「地を受け継ぐ」行為自体は律法にも定められ、イスラエルにとって当然の事なのだが、それが罪のために歪んでくる。御言葉に従って生きるとき、神が約束された祝福の中に生きることができる。
「仲間」は「会議、秘密」などの意味があり、大切なことを相談できるような仲間、その会議を指す。そのような親しい関係ということから「親しみ」(口語訳)と訳される。神を畏れる者は神との親密な関係に入れられ、神の御言葉の奥義を知らされる。御言葉(律法、聖書)は全ての人に与えられているのだが、神に対する畏れ(信仰)が無いと本当の意味が理解できない。神を畏れる思いで読むときに初めて聖霊が光を照らしてくださって聖書が分かるようになる。
「知らされる」は不定詞を用いており、直訳すると「そして彼らに知らされるべき彼の契約」。主動詞がこの節には無いので、補って訳す必要がある。
「目」は双数形、二つで一組であることを意味し、人間の体に関して良く用いられる。「両目」と訳しても良い。「足」も「両足」。
「向けられています」は原文にはない。「私の目は常に主に」だと分かりづらいので動詞を補っている。「目を向ける」は神に向かっている姿勢を意味し、祈り、礼拝、信頼、などを示している。前節の「主を畏れる」の具体的行為。
「網」が具体的に何を意味するかは分からない。詩人が直面している困難のことだろう。17節の「心の悩み、苦しみ」、18節の罪に関わる内面的な苦しみのこと、あるいは19節の敵の憎しみに関わる外面的な苦難のこと、あるいはその両方か。「網」のイメージはからみつき、自分では抜け出ることの出来ない、鳥や魚を捕るための網。自分ではどうすることも出来ない困難で、神に救いを求める以外に助かる道は無い。
「顔を向ける」は向きを変えるという意味で、「顔」と同じ語源。(余談だが、顔が常に複数形なのはいろいろな向き、すなわち様々な表情があるからだろうか。) 前節で詩人が神に助けを求めて顔(目)を向けているのだから、神も詩人の方に向いて助けてくれることを願っている。
「お恵み下さい」は「好意を示す、情けをかける、憐れむ、恵む」などと訳される。貧しい者が助けを求めている様子。
「たった一人」は助けてくれる者がいない状態。神にのみ救いを求めている。
「悩んでいる」は「貧しい」とも訳される言葉。貧しい故に苦しみ、悩む。「へりくだる」の意味もある。
「苦しみ」は複数形。詩人の心の悩みの大きさを表す。
「広がっています」を使役的命令と理解する(口語訳、新共同訳)のは難しい。悩みがさらに大きくなり続けている状態を示している。事実、悩んでいるときはその苦しみは増え、大きくなっていく。
「苦難」は「圧迫する」という動詞から出来た名詞で、圧迫され苦しんでいる状態。
「救い出す」は「外に出る」という動詞。苦しみの中から外に出す、ということ。15節の網にかかっている状態から救い出されることを詩人は願っている。
「悩み」は「貧しさ」という名詞で苦しみをも意味する。
「罪」は「ハタア」(7節参照)、いろいろな罪の代表として用いられている。
「取り去る」は「持ち上げる」という動詞で、持ち上げて取り去ってしまうこと。この節では詩人は自分の苦しみを罪と結びつけている。具体的な罪については語っていない。
<読むな>この節はアルファベットの順番から考えると「コフ」で始まるべきだが、そうなっていない。本来は違う言葉があったはずなのが、写本の段階で次の節の最初の言葉と紛れてしまったと考える説もある。その場合、「注意を払う、耳を傾ける」、あるいは「取り上げる」という意味の動詞の命令形があったと推測される。実際の所は分からない。<読んだでしょ>
「敵する者たち」では外からの苦しみを述べている。前節の内面的な罪の苦しみと、両方の苦難が詩人にはあった。「実に多い」と、その数の多さを訴えている。11節の「罪は多い(おおきい)」と同じく、自分の力ではどうすることも出来ない状況。「ご覧下さい」は見て、救ってください、ということ。
「暴虐な憎しみ」は直訳では「暴虐の憎しみ」。具体的な暴力に現れる憎しみ。
「魂を守る」のはその魂が代表している詩人の存在全体を助けること。しかし、特に魂を。
「助けてください」は、野獣の口から獲物を奪い取るように、危険から救い出すこと。
「恥じさせないでください」は2、3節のテーマを使っている。「救ってください」と同じこと。
「身を避けている」は「隠れ場」「避け所」と同じ語源の動詞。
「全き」は「完全」という名詞。神の完全さと正しさによって守られることが最高の救い。
「待ち望む」も1、3節のテーマ。最初のテーマに戻ることで、全体が締めくくられる。
最後の節はアルファベットから外れ、全体の結論となる。救いは詩人個人、王だけの問題ではなく、イスラエル全体に及ぶ。
「贖う」は身代金を払って奴隷を買い取って自由にすること。転じて贖いによる救いを指す。
1〜5節 神への助けの求め
6〜11節 罪の赦しによる救い
12〜15節 神を畏れる人の幸い
16〜21節 助けを求める叫び
22節 会衆全体のための祈り
全体としてはっきりとした構造はなく、アルファベット順を守りながら、さまざまな形で救いを求めている。
神は助けを求める者を必ず救ってくださるお方である。その苦しみが罪によるものでも、周囲の悪によるものでも。嵐の中でも主に祈り、顔を向けよう。