「信頼が賛美を産み、賛美が執り成しを産む」
「あなたにです」との呼び掛けから始まっている。「主よ」で始めるより、さらに必死の呼び掛けとなる。叫んでも相手が聞いてくれないときの悲痛さを感じる。
「呼ぶ」は単なる呼び掛けではなく、祈りであり、叫びである。
「私の岩」は力強い守り手である神を示す。信頼を向けるに相応しいお方が「わが岩」である。
「私に対して」が二回出てくるが原文では同じ形。これによって二行目と三行目が並行関係となる。
「耳を閉じないで」と「黙って」は類義語。前者は「耳を閉じる、黙る」、後者は「静かにする、黙る」。耳を閉じるの聞こうとしないことであり、従って答えがない(黙っている)ことになる。
「穴」は死を意味する用語の一つ。墓穴、あるいは地下にあると考えられていた死の世界(の入り口)をイメージする。神が祈りに答えて下さらないなら、信仰者は生きることが出来ない。
「同じになる」は「格言を言う」という動詞で、当時の格言は「AはBのようだ」という形式が多かったので、「何かに似ている、同じようである」という意味を持つ。
「嘆願」は相手の行為にすがって願うこと。自分には神に応えていただける何も無い時に、ただ神の憐れみと慈愛にすがって叫ぶしかなくなる。
「聞いてください」は文の最初に来ているが、これが通常の位置。二行目にもこの命令形が含まれるはずだが、省略されているのは、バランスを取るため。
「叫び求める」は一つの動詞。祈りはもう叫びになっている。「手を挙げる」も祈りの形の一つ。
「聖所の奥深く」は至聖所と呼ばれる、神殿の中で最も聖なる場所。大祭司が年に一回だけ入る以外は誰も近づくことが出来ない。詩人は恐らく見たこともないだろうが、そこにおられる神に向かって手を伸ばして祈っている。ここでは詩人は神との関係を遠く感じているので、「奥深く」におられるように思っている。
「引き行く」は死に向かって(1節)、あるいは裁きの場へ。
「悪しき」は邪悪、「不義」は不正な行い。「悪」と共に類義語となっている。
「彼ら」は原文にはない。後半は名詞構文なので「がある」も無い。
前半で抽象的に述べた「悪しき者たち」を、後半では具体的に説明する。それは親しげに見せておきながら悪意を持っていて、それを行う者。友であると見せかけて裏切るような者。詩人もそのような者に苦しめられた。
「彼らに与え」が二度繰り返されている。何を与えるかは明言されていないが「罰」であろうことは明らか。しかし、敢えてそれを述べずに最後に明らかにすることで印象を強めている。
「従って」と「彼らの」行いに対する当然の報いであることを述べている。
「報復を返してください」の「報復」は「熟する、仕返しをする」という動詞からの派生語。悪い行いが熟して報復を産む。「返して」は「帰る」(シューブ)の使役形で、良い意味(回復する)でも悪い意味でも使われる。
仕返しを願うというのはクリスチャンにとってあまり好ましくないように思われる。しかし、自分で復讐するのではなく、正しい裁きをすることのできるお方に委ねることは間違いではない。もちろん、それを越えて赦すことが最善だが、それはあくまで十字架の赦しがあってこそ。だが、詩篇は福音が啓示される以前であるから、この時点では神の正しい裁きに委ねることが最善となる。
日本語では口語訳のように区切る方がバランスが取れるが、原文では前半が長くなりすぎる。私訳のように区切ると「御手の業に彼らを引き落とし」という部分が分かりづらい。だが、「主の手に落ちる」が神からの罰の意味で用いられる(第二サムエル24:14、ただし異なる動詞)ので、ここも同じような意味だろう。並行法としては、「業に」と「なさることを」は類義語に同じ前置詞を用いていて、「主の」と「主の手の」はしばしば並行して用いられる。また前半後半ともに否定詞を含み、動詞「悟る」と「立てる」は子音が共通している。
「主のなさることを悟らない」は無知であるよりも、神を認めようとしない態度。神を神としない傲慢こそ「彼ら」が滅ぼされるべき理由。決して私怨による訴えではない。
「ほむべきかな、主」は定型句。主への感謝や賛美の言葉として良く使われる。
「嘆願の声」は2節で使われているのと同じ。
「聞かれた」は完了形で、完全な形では本篇で初めて使われ、ここで調子が変化したことが分かる。もちろん、実際に「完了」の意味で使われている。詩人は神が祈りを聞いてくださったことの確信が与えられる。神が、御業を理解しない、すなわち神を無視して生きている者たちを裁かれるお方であることが分かったとき、たとえ実際には起きていなくても、祈りへの答えとして神の裁きが行われる確信を持ったのである。
詩篇の中ではしばしば苦難の中の祈りが突然に感謝や賛美に変化することが見られる。これを異なる詩篇が結びつけられたと考える者もいるが、信仰者の実際の祈りの中でも、苦難の祈りのただ中で御言葉により確信が与えられて感謝へと変えられることはある。また、詩篇は問題が解決した後で作られたと考えるなら、前半で詩人は懐古的に、その時の心情になって歌い、それがもう解決されていることを思ったとき、それ以上苦しみの言葉を続けることが出来ずに、感謝と賛美が迸り出てきた、と理解することも可能である。
「我が力」も「我が盾」も神に対する信頼を表す言葉として詩篇の中に何度も出てくる。神自身が敵を倒してくださる力を持っており、信仰者にとって力の源泉、またどのような苦難からも守ってくださる盾である。
「彼に」が動詞の前に置かれて強調されている。力であり盾である、その彼に(そのお方に)信頼する、ということ。
「私の心」が二回使われている。「私の心は信頼する」は「私は信頼する」と同義だが、「私は」が続いて単調にならないようにしているのと、信頼と喜びが心からのものであるという意味を加えている。
「私は助けられた」は完了形。「歓喜し」は未完了だが継続的用法なので、散文では完了形と同じ意味になる。「ので」と訳されているのは接続詞「そして」であり、二つの動詞が時間的あるいは論理的に繋がっていると理解している。神の助けがあったからこそ詩人は喜びに溢れている。実際にはまだ問題は解決していないのかもしれないが、神が救ってくださる確信の故に感謝と喜びへと心が変えられていく。
「私は助けられた」は受動態。もちろん助けてくださった方は神である。
「歓喜し」は非常な喜び、特に勝利の喜びを表す言葉。
「私の歌の中から」は前置詞「から」を用いている。これを手段(歌をもって)を表すと理解している訳があるが、普通は違う前置詞がその働きをする。前置詞「から」は分離・比較・理由などを表すので、手段と解釈するのは難しい。ここでは、賛美の中から溢れ出すように感謝が生まれてくる様子を表すと理解した。
「感謝する」は「投げる」という動詞で、感謝する、あるいは賛美する、という意味で良く使われる。
節全体が名詞構文になっている。英語のbe動詞はヘブル語では省略することが多いので、訳では補うことが少なくない。日本語では訳に「である」を含めなくても、同じ意味として理解できる。
「彼らの」が5節までの敵(あるいは罪人たち)を指すと考えるのは難しい。詩人の属する民、信仰の仲間たちを意味すると考えるのが自然。しかし、突然に「彼ら」(口語訳では「民」)が出てくるので、ある学者たちは8〜9節を後代の加筆と考え、集会での賛美のために加えられたと推測する。しかし、もともと詩人は孤立した中で賛美を歌ったのではなく、仲間たちの前で神の救いを証しして賛美したであろうから、個人の祈り・賛美から共同体の賛美へと推移することは決して問題ではない。同じような現象は詩篇の中にしばしば見られる。
「砦」は安全な場所、戦いの時には砦、要塞がそれにあたる。隠れ場、避け所、と訳しても良い。
「油注がれた者」は「メシア」であり、旧訳時代は祭司、王、預言者がそれにあたる。ここでは王と考えるのが自然。王にとっての救いは民全体の救いに繋がる。「その」は原文では「彼」。
「救い」が複数形なので、何度も救われたことを意味するか、あるいは救いの偉大さを述べるために複数形を用いたか。「救い」は救助や勝利を表すこともある。
「救ってください」は救いを表す動詞の中で一番重要なもの。口語や新改訳の「どうぞ、どうか」は付け加え。「どうか」を表す接尾語を加えると「ホシャアナー」となり、福音書の「ホサナ」の原型となる。
前節では「彼ら」と曖昧であったのをここで「あなたの民」と具体的に述べる。このように最初ははっきりと述べないで後でそれを明らかにするのは詩文ではよく用いられる表現法。
神の救いと祝福を受けるのは、彼らが神の民、神の嗣業(所有)であるから。嗣業は通常は神から与えられ代々受け継がれる土地を指すが、時には神が人の(特にレビひとの)嗣業となられ、イスラエルも神の所有の民として嗣業と呼ばれる。
「牧して」は神を羊飼いに例えている。「運んでください」は「持ち上げる、運ぶ」という動詞。「とこしえまで」は時間を表すが、それを空間的にとらえ、「とこしえ」に到着するまで民を「持ち上げて抱きかかえるように」運んでいってくれることを求めている。
この最後の節では4つの命令形を連続して使い、祈り、特に人々のためのとりなしの祈りで閉じられている。救いの感謝は自分のことで終わらず、周りの人の救いのための執り成しに発展する。
1〜5 救いの求め
1〜2 祈りをきいてください
3〜5 悪人と一緒に滅ぼさないでください
6〜9 救いの感謝
6〜7 救いの確信による賛美
8〜9 民のためのとりなし
詩人が頼みとしたのは神の憐れみであるとともに神の義であり、神は必ず正しいことをして下さると確信している。世の中の悪や矛盾の中でも、神に目を向けるところに賛美が生まれる。また救われたならば、今度は救いのとりなし手となろう。