「力ある神の声」
本篇は「主の声」と雷とを同一視し、自然界に表された神の力と栄光を賛美している。勝利の歌と呼ぶ者もいるが、それは異教の神々に対する主の圧倒的な強さ、という理解から来る。どちらにしても中心は、神の声(雷)に表された神の力である。
25〜28篇は「ダビデに」だけだったが、29篇から23篇と同じ「賛歌」(ミズモール)が表題に加わる。
「主に帰せよ」の目的語が前半では省略され、後半で明らかにされる。並行法ではよく用いられる技巧。
ここでは「神々の子ら」は何らかの天的存在(天使?)を意味すると考える。しかし、実際に人間が天使に呼び掛け、しかも命令することは出来ないので、天使に呼びかける表現によって会衆全体に呼びかけていると理解できる。
「栄光と力を」主に帰せよ、と呼びかけている。神に栄光を帰するとは、成功や業績を自分の栄誉とせずに、そうさせて下さったのが神であることを明らかにし、その結果、神が崇められるようにすること。「力」も、その源泉が神であることを述べること。この詩篇全体が神の力と栄光を描写して賛美していることから、1節は全体の主題となっている。
「神々の子らよ」が直訳だが、これだと多神教のようなので神学的に問題となる。いくつかの解釈が考えられる。(1)天使たち。創世記6:2に似たような表現(「神々の子たち」、あるいは「神の子たち」)があるが同じではない。「天上の会議」と考えられる表現が詩文(詩篇82篇など)の中にあるが、そこに属する天的な存在と理解する者もいる。この場合も天使のような存在と考えられる。(2)複数形を「畏敬の複数」と理解して、訳は単数形にする。神の名前の一つである「エロヒーム」も複数形で、神や王などに対してそのような表現法が使われる。新改訳の「力ある者の子ら」も似たような解釈。この場合、「神の子たち」となるが、それは天使、あるいは人間を指すと考えられる。(3)異教の神々を指す。「の子ら」は、そのような性質を持った者(例、「人の子ら」は人間の性質を持った者たち、すなわち人間。「怒りの子」は神の怒りを受けるような者)を意味するので、「神々の子ら」全体で異教の神々を意味する。この場合、実際に多神教の神々が存在するという主張ではなく、もしそのような者が存在するとするなら、という仮定的な表現。「お前たちが神々と呼ばれているかもしれないが、本当の神であるお方に栄光を返すがよい」ということだろう。
この「神々の子ら」や、この詩篇に出てくるような表現が、古代カナンの宗教詩に見られるため、29篇はもともとカナンの詩であったものを造り替えて賛美にした、という学説がある。例えばカナンの神の一つであるバアルは嵐の神であった。だが、同じような表現や語彙が使われるのは、詩の題材(ここでは雷)が共通しているためとも考えられるので、必ずしも正しいとは言えない。しかし、もしかすると、詩人がカナンの詩を耳にし、「彼らは偶像を神と思って讃えているが、栄光を受けるべき本当のお方は主だけだ」という意味を込めて、敢えて同じような表現を使って賛歌を作ったのかも知れない。同じようにカナン宗教詩と類似している詩文はいくつか見られる。
「その名」(彼の名)、すなわち御名は、単なる名前ではなく、神の本質を意味する。「その名の栄光」は神ご自身の栄光であり、神の本質の中に表された栄光。また、神の名前の中には神の栄光ある本質を示すものもある。「全能の神」など。
「伏し拝め」は人間に対しては「お辞儀をする」、また王や神に対しては「平伏す」などとも訳され、「礼拝する」と訳すことも出来る。三回「(栄光を)主に帰せよ」と続き、それを具体的に表す行動としてすることが「礼拝」である。
「(聖なる)飾りの内に」は直訳。「飾り」は装飾品の他、着ている「装い」を指すこともあり、その輝かしい装飾により示されている栄光をも意味する。問題は、この装いが誰の者であるか。口語訳と新改訳は礼拝する側のものと理解し、「聖なる装いをもって、聖なる飾り物を着けて」と訳す。新共同訳は礼拝される側のものと理解し、「聖なる輝きに満ちる(主に)」としている。文法的にはどちらの訳も可能。しかし、詩篇全体としては礼拝する側のことよりも礼拝を受ける神の栄光を綴っているので、その流れの中では、「神の聖なる威光」と考える方が良いと思う。この節の後半と全く同じ文が詩篇96:9に出てくるが、そちらは礼拝する側の装いであると考えられる。
「主の声」は、この詩篇のキーワード。雷鳴をイメージしていると考えられる。出エジプト19:19などで、神の声がかみなりに例えられている。逆に雷鳴を聞いて神の声を想像したのだろう。「主の声」はヘブル語で「コール・アドナイ」であり、音としても似ている。岩を転がす音から「ギルガル」と名付けるなど、日本語の擬音のようなことがヘブル語でも見られる。
「水の上にあり」は動詞が無く、直訳すると「水の上に」だが、「ある」(英語のbe動詞)が省略されるのは良くあること。「水」には定冠詞が付いているので特定の水を念頭に置いているのかもしれないが不明。目の前に雷雨があるとして、その雨水、あるいはその結果生じた水の流れか、または雷雲の中にあると考えられる水。または、「大水」とともに海(ガリラヤ湖?、むしろ地中海)を指すのかもしれない。神が水の上に(座して)おられるという表現は他でも見られる。
「栄光の神」は1、2節と関連しており、ここでは神の栄光が雷によって表されていると考えている。
「雷鳴を轟かせる」は一つの動詞「雷が鳴る」の使役形。
「大水」は直訳では「多くの水」。「水」自体が複数形で使われるのが普通なので、「多くの」を使って「大水」であることを表現する。
この節は、雲の上で雷鳴が始まり、それが空全体に響き、そして大雨が降ってくる、という情景を思わせる。
「主の声」が三回、しかも短い間隔で繰り返されている。一回目(3節)からの感覚が長いので、この三連発により聞く者に驚きを引き起こす。(地震に例えるなら、余震と本震のように。)
参考までに七つの「主の声」の間隔をヘブル語の単語数で数えると:
*−7−*−1−*−1−*−15−*−3−*−6−* (*が「主の声」、数字が単語数)
「力の内に」は「力と共に」、あるいは「力をもって」現れる、とも理解できる。前置詞をそのまま訳すとこのようになるが、詩の流れを考えると、これは主の声の力強さを示しているので、「主の声は力強く」としている新改訳は良いと思う。あるいはさらに簡潔に「主の声は力、主の声は威厳」とすると(文法的には問題があるが)原文の雰囲気が出てくる。
「威厳」は2節の「飾り」(装い、輝き)の男性形名詞で、「栄光」の類義語。本篇のテーマと一致するが、「力」も「威厳」も1節とは違う語。
5節は、その力強い「主の声」(雷)により森の木々が引き裂かれる様子。次の6節と合わせて、神の力の現れにより、自然界が慌てふためく様子を描く。「杉」は現代の日本の杉と同じ種類かは分からない(口語訳では「香柏」)が、ソロモンの神殿や王宮を建てる時に用いられるなど、建築に向く強く大きな木を意味する。そのような強い木でも神の声の前にはひとたまりもない。「レバノンの杉」が特に有名。あるいは杉に象徴されるレバノン国の誇りを砕くという意味かもしれない。 「打ち砕き」が二回、しかし違った形(分詞と未完了形)で使われる。二回目の主語は「主の声」ではなく「主」ご自身で、同じことなのだが、敢えて「主の声」を使わないことで、他の「主の声」の使い方を効果的にし、また単調さを避けている。
「跳ねさせる」はこの節、唯一の動詞で、後半は同じものが省略されている。子牛が跳ね回る姿は踊っているようなので、口語訳では「踊る」としている。主語は特に記されていないが「主」あるいは「主の声」であるのは明らか。
「子牛」や「野牛」など、牛や羊などを表す言葉は日本語よりも豊富。
「レバノン」は前節と同じ。「シルヨン」は口語では「シリオン」と訳されているが、星のシリオンではなく、ヘルモン山の別名。レバノンも山岳地帯なので、両者とも山々を意味する。雷の光に映し出されて山々が踊っているように見える。あるいは動物たちのように嵐の中で驚いている様子か。
7節は雷が木々に落ちて、あちこちで火がついて燃えている様子。または稲妻が枝分かれしている様子。「火の炎」は日本語としては奇妙だが、原語の通り。ただし「炎」は複数形。「切り裂く」は木や岩を切ること。
8節は雷鳴によって地面が震えている様子を描く。「震える」は出産の時に「身もだえする」動きや「踊る」様子にも用いられる動詞。
「荒野」は「震えさせる」と共に二回同じ形で出てくる。後半は「主の声」の代わりに「主」となっているので、足らない分、「カデシュ」を補ってバランスを取っている。
「カデシュ」はユダの南部にある荒れ果てた地域。「荒野」自体が荒れ果てた場所なので、一行目よりも二行目は強い表現を使っていることになる。
最後の「主の声」。5〜6節で長い合間があるのを除けば後半の3つの「主の声」は段々と間隔が開いていき、まるで(北から南へ)雷が遠ざかっていく様を描いているように思える。
雷と嵐が過ぎ去った後、「牝鹿たち」は驚きのあまり出産が始まり、林は既に火で焼かれて裸になっている。
「牝鹿」を含め、自然の動物や植物を示す語の中には意味が不明な場合がある。口語訳は一部読み替えて「樫の木」と理解し、「林」と並行させている。その場合「産みの苦しみ」は当てはまらないので「巻き上げ」と訳している。
「産みの苦しみをさせる」は前節の「震えさせ」と同じ動詞で、強意形なので意味が強くなる。牝鹿が「身もだえする」ので「出産の苦しみ」を指すと考えられている。
「林」は「木」の複数形を使う。
「彼の宮」の「彼」が誰(何)を指すかは文脈では不明瞭。男性単数三人称の代名詞なので「彼」でも「それ」でもあり得るが、通常は一行目の「主」を指すと理解する。この「宮」は神殿を表す場合が多いが、ダビデ時代には神殿は出来ていなかった。また、自然界の描写から突然にエルサレムの神殿に飛ぶのも、不可能ではないが、やや自然。むしろ神の住まいとしての天上の神殿、あるいは「全世界」と理解するほうが良いかと思われる。「宮」は「王宮」の意味でも用いられ、神が王であるとの考えと合わせると、「宮、神殿」に限る必要はない。
「彼の全てのもの」もやはり神の所有、あるいは王なる神に支配される全ての存在。自然の全てが神の「栄光」を叫んでいる。新共同訳の「栄光あれ」と意訳するのは好訳。
「洪水」はノアの洪水。ここ以外では創世記に出てくるのみ。詩の中では3節の「大水」と同じ意味だろう。「洪水に」は「上に」という前置詞ではなく、「へ、に」という前置詞だが、「座る」という動詞と用いる場合は「上に」と理解する。私訳では「洪水に」としているが、それでも「上に」座っていると理解できる。
「王座に」は原文では「主は王に座る」で、「王として座る」(新改訳、新共同訳)と訳すことが多い。ここでは意訳して「王座」とした。
「とこしえまで」を直前の「王」と結びつけて「とこしえの王」(新共同訳)とすることも可能。 9節までは単に雷の情景を描いているのではなく、王なる神の支配の様子を、雷の力を通して表していると考える方がよい。
10節までで、自然界を恐ろしいまでの力をもって治めている王なる神が、彼の民に対して力と祝福を与えている。ノアの洪水の後で、神がノアを祝福したことを彷彿させる。
「力」は4節ではなく1節の「力」と同じ語。「力」で始まり「力」で終わる。
「与える」は動詞として通常の位置ではなく、最後に置かれている。
最後の語は「平和」(シャローム)。嵐の情景を描いてきて、最後は平和(平安)な静けさで終わっている。
1〜2 賛美への招き
3〜9 主の声の力強さ(雷をイメージして)
10〜11 王なる神
主の声は雷のように力強く、また恐ろしい。しかし、その神は信じ従う者を祝福し、平和を与えて下さる。神の声、すなわち神の言葉には力がある。今も、罪の心を揺り動かし、救いを求める者には平和をもって望んでくださる。