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詩篇33篇

「賛美が産み出す信頼」

この詩篇は29篇と同じく、神への賛美が中心である。賛美は賛美で終わるのではなく、神への信頼へと繋がっている。

私訳と注釈

表題

<ここは読まないこと>第1巻(1〜41篇)の中では、全体の緒論となっている第1、2篇を除くと、表題が無いのはこの詩篇だけで、他は全て「ダビデ」の名を含む表題を持つ。そのため、33篇は32篇ともともと一つであった、とする考えもある一方、33篇は後からここに付け加えられたとする者もいる。32篇と33篇をひとつにしている写本もあれば、ギリシャ語訳聖書では33篇にも「ダビデの」と表題が付いていることから、解決するのは難しい問題である。内容的には「嘆きの感謝(又は教訓)」(32篇)に対して、33篇は明白に「賛美」であるので、連続しているとは考えにくいが、32:11と33:1の間には関連があると見られ、少なくとも編集した者は二つの詩篇のつながりを意識していたと考えることは可能である。だとすると、32篇最後の「賛美への呼び掛け」に対する応答として、33篇の賛美が用いられたと見ることが出来る。<読んだ?>

1〜3節 賛美への招き

この部分は、詩人が人々、特に「正しき者たち」と呼ばれている真の信仰者たちに呼びかけて、神を賛美するように勧めている。

詩人は単に「賛美しよう」ではなく、具体的に、様々なかたちで賛美することを勧めている。どのような賛美が挙げられているだろうか。

1節

喜び叫べ、義なる者たちよ、主にあって、
正しき者たちに相応しいのは賛美。

「喜び叫べ」は一つの動詞で、複数形の命令形。詩篇の最初が二人称複数への呼び掛けで始まるのは、第1巻の中ではこれと29篇で、どちらも創造主への賛美。

「義なる者たち」は二行目の「正しき者たち」と同義で使われている。この節と、32篇の最後とはいくつもの共通点がある。「義なる者たち」と「正しき者たち」は両節に登場する。「喜び叫ぶ」は命令形で登場する。「主にあって」も喜びに関連して用いられている。類似点と共に相違点もある。しかし、「正しき者たちへの賛美の呼び掛け」という点では両者の結びつきが見られる。

「主によって」は「主にあって」と訳すことも出来る。どのような訳語を使うとしても、ここで言っているのは、詩人にとっての喜びは神との関係にのみ存在している、ということ。

「正しき者たちに」は前半とは違い前置詞付き。「義」が法と関係することが多いのに対し、「正しい」は「真っ直ぐである」という意味。

「相応しい」は形容詞であって、二行目は動詞が無い名詞節である。女性の美しさを表す場合もあり、この語自体は賛美の意味は無いが、「正しき者たち」と「賛美」を結びつけている。

「賛美はテヒラーで、詩篇(テヒリーム)の単数形。

<ここは飛ばす>この節の二つの行は複雑な平行関係を持っている。一行目では「喜び叫べ(賛美の意味で)」と動詞で、二行目では名詞で「賛美」について述べている。一行目では賛美する主語は男性複数名詞で、目的語(賛美の対象)は前置詞+男性単数名詞、それに対し、二行目では主語を前置詞+男性複数名詞で示し、目的語(「賛美」)が女性単数名詞となっている。また、一行目は動詞の命令形で賛美への招きを表し、二行目は「相応しい」と名詞節ではあるがやはり賛美への招きとなっている。詩篇では最初の節で明確な平行法が用いられていることが多い。<ここまで飛ぶ>

2節

感謝せよ、主に、竪琴をもって、
十弦の琴をもって、彼を誉め歌え。

「感謝せよ」は「投げる」という動詞で、使役形では「告白する、感謝する」と訳される。楽器を用いて「かんしゃする」ことから、ここでは賛美の一つとして用いられていることが分かる。

「竪琴」は楽器の一種であるが正確な形状は分からない。ガリラヤ湖の別名「キネレテの海」は湖の形が竪琴(キンノール)に似ているから。

「十弦の琴」の「琴」は「革袋、壺」をも意味する言葉で、何らかの弦楽器の名前としても使われる。「十弦」と訳されているのは「十」で、弦の本数を示していると考えられている。ここでは、単に二種類の楽器というのではなく、様々な楽器を用いて、という意味だろう。

「誉め称えよ」は「神を称える音楽を作る」という意味とされている。賛美は音楽を伴わない、言葉のみによる賛美もあるが、ここは音楽を用いての賛美。

3節

彼に歌え、新しい歌を、
巧みにかき鳴らせ、喜びの声と共に。

前節二行目と同じく「彼に」と書かれているが、「主に」であるのは明らか。

「歌え」と「(新しい)歌」は同形の動詞と名詞。一般の歌も意味するが、ここでは賛美としての歌。

「新しい歌」が生まれるのは、私たちが体験する神の救いと恵みは日々に新しいから。今までの歌では表現し尽くせない感謝と賛美を捧げるために、新しい賛美が生まれる。

「巧みに」「かき鳴らす」は直訳すると、「(楽器を)奏でることに上手であれ」という意味。神から与えられている賜物を最大限に用いて、神を賛美する。「奏でる」は具体的に何の楽器かは述べられていない。

「喜びの声と共に」は、戦場では、戦いの時の叫び、警告を告げるための叫びとして用いられ、礼拝の場では「喜びの叫び」を意味する。「と共に」は、「(楽器を)用いて」と同じ前置詞なので、文字通りは「喜びの声をもってかき鳴らす」で、まるで演奏が主で声が従であるかのようである。実に様々な「賛美」がある。

4〜5節 賛美の理由・内容

この部分では3節までの賛美の勧めの理由を述べている。理由は同時に内容でもある。私たちは「救われたから」賛美し、「救われたことを」賛美する。

詩人が賛美の理由としてあげているのは何でしょう。

4節

まことに、主の言葉は正しく、
また、彼の業の全ては真実の内に。

「まことに」は理由をあらわす「から」とも訳すことができ、その場合は、1〜3節までの賛美の理由を述べていることになる。あるいはその賛美の内容が4節以下と理解することもできる。

「正しい」は形容詞で、1節の「正しき者たち」(これも形容詞で複数形)と同じ語。「真っ直ぐ」、すなわち、(神の言葉は)曲がっていない、ということ。この節は前半も後半も名詞節で、動詞は補って理解する。通常、後半には「(内に)ある」を補う。

「業」は単数形だが、「全て」を伴い、特定の一つの御業ではなく、一般的な意味での単数形だろう。前半では神の言葉の正しさ、後半では言葉だけでなく、行い(御業)もの素晴らしさを述べる。

「真実の内に」とは御業が真実であること。「真実」は「アーメン」と関係する言葉で、「堅いこと、確実なこと」を意味し、だから信頼できるということ。「真っ直ぐである(正しい)」ことと「真実である」ことは表裏一体である。言葉と業の正しさは、すなわち神ご自身の正しさ、真実さを示している。

5節

公義と公平を愛されるお方、
主の慈しみは地に満ちている。

「公義と公平」は、それぞれ「義」、「裁き」と訳される言葉で、「義しい裁き」と理解することもできる。「(公)義」は1節にも用いられている。もちろん、神の義と人の義は同列で比較できないが、神の義を戴くときに人間は義であることができる。「裁き」は、正しい裁きを行うことのできる「正しさ」を意味することもあるので、ここでは「義」とペアとして「公義と公平」と訳した。旧訳の中でしばしば一緒に用いられる。神は愛のお方であると同時に正しいお方。

「愛するお方」はもちろん神を指している。動詞の分詞形が用いられている。散文では分詞形はしばしばその動作を行う存在を意味し、「(を)愛するお方」となるが、詩文では普通名詞としても使われるので、「彼は..を愛しておられる」と訳すことも出来る。「愛する」は最も一般的に用いられる語で、人間同士の場合にも神と人間の間でも用いられる。

「慈しみ」は神の愛を示す言葉の一つ、変わることのない愛で、特に契約を交わした相手に対しての、その契約を守り、愛し続けてくださること。

「地に」と、神の愛が単なる概念ではなく、神の被造物の中にも満ちている、具体的な愛であることを示す。また、この語を導入することで、次の段落の「天地創造の御業」へと繋がっている。

6〜7節 神の創造の御業

神が御言葉をもって世界を造られた。また神はご自分の造られた世界を思い通りに動かしておられる。ここではそのごく一部について語っている。

ここでは天地創造のどの部分を取り扱っているでしょう。

6節

主の言葉によって諸天は作られ、
また彼の口の息によってその軍の全ては。

「諸天」は「天」と訳しても良いが、常に複数形で使われるため。それに応じて動詞も三人称複数形となっている。「作られ」は受動態。この「作る」は一般的な意味での「作る、行う」という意味だが、神の天地創造の業には「造る」(ヘブル語、バーラー)が使われる。しかし、実際には両者は大きな違いなく同じように使われていることが多い。二行目は動詞が無いが、一行目と同じ動詞を補って理解する。

「(彼の口の)息」は「霊」とも訳される言葉だが、「口」と共に用いているので「息」と訳す方がよい。これは神が人間のような口を持ち呼吸をしている、ということではなく、逆に人間の姿を用いて神の姿をイメージしている。神の「口」から出る「息」とは、神の御言葉であり、その言葉を伝えている神の霊(聖霊)でもある。この節では「主の言葉」と平行していることで、御言葉を意味していることが分かる。

「その軍」は正しくは「それらの軍」で、諸天が複数形なので「それら」となっていいる。日本語としては「天」が単数形のイメージがあるので「それ」のほうが良い。「天の軍」とは度々複数形で「万軍」とも訳され、神は「万軍の主」と呼ばれる。この「万軍」は、(1)天使の軍勢、あるいは(2)全ての天体(星)を意味すると考えられている。ここではどちらの解釈も可能で、諸天、すなわち神のおられる第七の天から第一の天までの全てを神は作られ、そこに存在する天使の万軍をも作られた、あるいは、人間が見ることの出来る「天」を神は作られ、その天にある「全ての星」も作られた、ということ。「地」や「水」に言及している前後関係からは後者の方が良いと思われる。つまり6節は7節と共に神の天地創造の業を述べている。

7節

海の水をうずたかく集め、
深淵を倉庫の中に置かれる。

「うずたかく」と訳したが、原文では「ネードのように」で、これは収穫の時に採れた作物を積み上げて作った山のこと。「山のように」と訳すと通常の「山」という語と同じになるので、副詞的に訳した。この語は、紅海渡渉とヨルダン川渡渉の時に海または川の水がうずたかくなったことを述べるときにも使われるので、この節もその時のことを指すと理解する考えがある。しかし、そうすると二行目との関連が分かりにくく、前節ともつなげにくい。むしろ、天地創造との関連の中で、神が被造物を思い通りに動かしておられることを意味すると考える方が良い。もちろん、その中には出エジプト時の奇跡も含まれる。ここの水は、創世記の中の1:6や1:9をイメージしているのかもしれない。神は水を一所(海)に集め、天の倉に集めて思いのままに雨を降らせられる。

「倉庫」は複数形。宝などを納め、あるいは隠す所。

「深淵」は海の深み。

8〜9節 神の世界支配

神の天地創造と、それを動かしておられる御力は、今度は世界を支配しておられる。前節ではそれが海(水)に対してだったが、ここでは人間に関わって述べられている。

人々が主を恐れる(畏れる?)のは何故ですか。ここに隠れているテーマは?

8節

全地は主を恐れ、
世界に住む者たちは全て、彼におののく。

「全地」は人間以外の存在も含むことが出来るが、ここでは特に人間を指している。

「恐れる」の対象は「〜から」という前置詞によって表し、この節では主をである。「恐れる」は「畏れる(畏敬の念)」の意味でも使われるが、罪ある者にとっては恐れである。この節では後半との関係も考えると、「恐怖する」のニュアンスの方がやや勝る。

「世界」は詩文の中で用いられる表現で、ここでは「全地」と同じ意味で使われている。

「おののく」は多くは「寄留する」の意味で使われているが、時に「(恐怖の故に)おののく」という意味で使われることがある。ここでは前半との関係で「おののく」と訳すこととする。

9節

まことに、彼が言う、すると成る、
彼が命じる、すると堅く立つ。

主を恐れる理由が9節で述べられ、それは神の御言葉が現実となるから。「言う」と「成る(ある)」は創世記1:3で使われている表現。その意味で9節は天地創造を指しているとも考えられるが、それに留まらず、全てのことが神の御言葉通りに成ることを述べていると考える方がよい。

「彼」は強調的に使われている代名詞で、何を指すかは自明。後半でも用いられており、二行の平行関係を強めている。

「命じる」は、この節では「言う」と同じ意味で使われている。「堅く立つ」は「留まる、残る」とか「(立って)仕える、給仕する」の意味もあり、様々な理解が可能。ただ前半との平行関係を考慮すると、「成る」と関わっていると考えられる。

10〜11節 神の計画

神の世界支配は人間界にも及び、人々の計画ではなく、神の御旨こそが実現する。

10節と11節のコントラストを見つけましょう。

10節

主は、国々のはかりごとを壊し、
もろもろの民の企てをくじく。

「主は」が最初に置かれ、強調されている。

「壊す」は「破壊する」の意味の他に、特に人間の計画を無効にする、という意味でも使われる。ここもそのような理解で良いだろう。

「はかりごと」は詩篇1:1でも使われている。後半の「企て」と同じ意味で使われている。

「もろもろの民」は「国々」と同じく複数形だが、「民々」とは訳せないのと、二行の長さのバランスをとるためにこのように訳した。

「企て」は「考え」とも訳される。

11節

主のはかりごとは永遠まで堅く立ち、
彼の心の思いは、代々に。

「(主の)はかりごと」は前節の「(国々の)はかりごと」と同じ語。前節では壊されたのがこの節では「堅く立つ」(これは9節と同じ語)。

「(彼の心の)思い」は前節では「(もろもろの民の)くわだて」と訳されている語。ここも同じ訳にしても良いが、「神の心の企て」はあまり上手な日本語ではない。

「代々に」は直訳では「世と世まで」。「世」は人間については「世代」を差し、世代から世代に渡って、すなわち永遠に、ということ。しかし、人間の理解を超えて、「今の世」と「来るべき世」(終末後の世界)を指すとも考えられる。二行目は動詞が無く、1行目から補って理解する。「堅く立つ」を補っても良いが、9節に習って「成る」でも良い。神の御旨、神の計画は、この世でも、来るべき世(天国)でも必ず成る(実現する)。

12節 神の民の幸い

この部分は9〜10節の帰結として教訓のようなことを挿入的に述べている。

神の民にとって、何が本当の幸いでしょうか。

12節

幸いなるかな、主がその神であるその国、
彼がご自分の嗣業として選んだその民。

「幸いなるかな」は1:1と同じ。原文では「幸いなるかな、その国」と並んでいる。

「である」は動詞を補っている。ここは関係代名詞節。後半では関係代名詞を用いていないが、詩文ではそのほうが自然。

「国」と「民」は同じことを差している。

「選ぶ」はアブラハム、イスラエル(ヤコブ、国の両方)の選びを指す。ダビデの選びも。

「嗣業」は神がイスラエルに与え、先祖代々そこを耕して守るように命じられた土地。民が「神の嗣業」とは、神のものであり(前半では主が国の神)、神の計画のために自由に用いること。単純に神がイスラエルを祝福する、と言うのではなく、彼らが神に従い、神のものとして用いられる時にこそ、本当の祝福がある。

13〜15節 人間を見られる神

神の支配は、神が全ての人を主として見ておられることにも表されている。

神は誰を見、その人のどこを見ておられるでしょうか。

13節

天から主はご覧になり、
全ての人の子らを見られる。

一行目では「どこから」を述べて「何を」を省き、二行目では「どこから」が省かれ「何を」を特定している。二行を併せて意味が理解できる。二つの「見る(ご覧になる)」は、ここでは意味の違いは無い。神が「見る」のは支配の現れの一つ。

14節

彼の住んでおられる場所から見つめる、
地に住む者たち全てを。

ここも13節とほぼ同じ意味。「天」を「彼の住まわれる場所」、「人の子ら」を「地に住む者たち」と言い換えている。「見つめる」も「ご覧になる、見る」と同義で使われている。

15節

彼らの心と共に形作られ、
彼らの行いの全てを見分けられる。

「形作る」の主語は主。分詞形なので、「(主は)形作られるお方」と訳すことも可能だが、おまり良い訳ではない。

「共に」は、神が何を心と一緒に作ったかを語っていない。多分、神が肉体と共に心をも作った、ということだろうか。「共に」を他の人間を作ったのと同じく、ということで、一人一人を意味すると新改訳は理解している。

「見分ける」は「理解する」とも訳されるが、前節までの流れ(いくつかの「見る」)から「理解し判別する」という意味ではあるが「見分ける」とする。

「(彼らの)行い」は4節の「(主の)御業」と同じ語。神は心を見られ、行いを見分けられる。

16〜17節 王の助け(神への信頼)

一見すると王たる者の心備えとも思えるが、暗に述べられているのは(明言されていないが)主に頼れ、との訓戒である。すると、前節までの「神が(心も)見ていられる」のは、人間一般であるよりもむしろ、特に王自身の心を指しているとも考えられる。神の支配、神の計画に対し、心も行いも見ておられる神に、全き信頼を置いているか、が問われている。

私たちにとって「頼りにならないもの」は何でしょうか。

16節

軍の多きによって救われる王はいない、
勇士はその力の大いなるによって助け出されない。

「多きによって」と二行目の「大いなるによって」は同じ句。軍隊ならば数の多さ、力ならばその大きさ。どちらも頼りになりそうで、いざというときに頼りにならないことがある。

「救われる」も「救い出される」も受動態。救いを意味する語彙の代表的なもの。

17節

馬は救いにとって偽りとなり、
また力の大いなるは助けとならない。

「馬」には定冠詞が着けられ、特に軍馬を指す。軍隊においては重要な配備で、時に王の誇りともなるが、神はこれを禁じている。前節と同じことを述べている。

18〜19節 主の救い

前の部分で軍備や力は本当の救いでは無いことを述べ、この部分で真の救いが明らかにされる。13節の「見る」も単なる支配者ではなく、実は救助者の目でもあった。

詩人にとっての「救い」は何でしょうか。

18節

見よ、主の目は彼を畏れる者たちに、
彼の慈しみを待ち望む者たちに。

最初の「見よ」は動詞ではなく間投詞。動詞は分詞として用いられているので、節全体が名詞節となり、「ある」を補って理解する。

「畏れる」は「恐れる」(8節)と同じだが、ここでは良い意味で用いられている。救いの対象であり、「待ち望む」と平行しているので「恐怖」よりも「畏敬」となる。

「慈しみ」は5節と同じ。「待ち望む」は時間が掛かっても忍耐して救いを待つという、信頼を示す言葉。

神はご自分に信頼する者たちを見放すのではなく、必ず目を向けておられる。ただ、救いが何時かは神の計画なので私たちは知り得ず、ただ信頼して待ち望むのが正しい姿勢である。

19節

それは、彼らの魂を死から助け出すため、
飢饉の中で彼らを生き延びらせるため。

神が目を留めておられるのは「彼らを助け出すため」。この動詞は16節にも使われている「助ける」が「死から」があるので「助け出す」と訳す。

「死から」は実際に死んだ者を生き返らせるということではなく、死にかけるような状態。「魂」も肉体と分離した霊魂ではなく、体も含む、その人そのものを指す。

「飢饉」は初めて語られる話題。詩人の問題は「敵」(10節)だけでなく「飢饉」をも含む。

20〜21節 信頼と賛美の呼び掛け

前節までの信頼と救いに基づいて、今度は「我ら」と詩人の周りの人々に語りかけ、さらなる信頼と、救いを確信しての賛美を語ることで信頼と賛美に招いている。

あなたにとって神はどのような助け主、救い主ですか。

20節

我らの魂は主を待ち望む、
我らの助け、また我らの盾は、彼。

「我らの魂」は代名詞は一人称複数形であるのに、名詞(魂)は単数形。別に全員の魂が実は一つとなって繋がっている、ということではなく、このような言い回しなのだろう。

「主を」「彼」は同じ方を指しているのは明らか。

「助け」「盾」は神の救いを信頼する語であり、またこのように神を述べることで賛美となっている。

「彼は」が最後に来て強調を受けているので、訳でも倒置することで強く表現している。「彼(主)は」だが、意味の上では「彼こそ」。

21節

まことに我らの心は彼を喜び、
まことに彼の聖なる名に信頼する。

「まことに」が二回使われている。片方あるいは両方を、理由を表す接続詞(「〜から)」と理解するものも少なくない。ここでは強調とし、二つの行の平行関係を強めている。

「彼の聖なる名」は直訳では「彼の聖の名」だが、形容詩的に訳すのが良い。

「信頼する」も「喜ぶ」もこの詩篇の主題にとって重要な用語だが、ここで初めて登場する。

22節 まとめの祈り

苦難の中の祈りが最後に賛美に変わるように、この詩篇(賛美が中心)も最後に祈りが付け加えられている。このような二種類の要素が並列するのは珍しいことではない。信頼と賛美を土台として、大胆に救いを求めている。

祈りの中で信仰が与えられ賛美へと変えられる。また賛美の中で信仰が強められ祈りが変わっていく。そのような体験がありますか。

22節

あなたの慈しみが、主よ、私たちの上にありますように、
私たちがあなたを待ち望んだように。

「慈しみ」と「待ち望む」(信頼の現れ)は本篇に中で度々出てきたテーマ。詩の最後に重要な主題を繰り返すことは良くある。ここでは、それを祈りの要素として用いている。

「待ち望んだように」は、詩人(たち)が神の救いを信頼して待ち望んだ、その信仰の通りに救って欲しい、ということ。神が必ず、待ち望んだ通りに救いを与えて下さる、という積極的な祈りである。

構造

    1〜3節 賛美への招き
     4〜5節 賛美の理由・内容(神の正しさ)
      6〜7節 神の創造の御業
      8〜9節 神の世界支配
      10〜11節 神の計画
        (12節 神の民の幸い)
      13〜15節 人間を見られる神
     16〜17節 王の助け(神への信頼)
     18〜19節 主の救い
    20〜21節 信頼と賛美の呼び掛け
    22節 まとめの祈り

メッセージ

賛美を通して私たちは視点が変えられる。周りの状況に目を留めるのではなく、詩人が神の「義しさ」に目を向けた。そこから全てのことを考えたときに、神への強い信頼が生まれてきた。その信頼に基づいて祈るとき、賛美以前よりも祈りが強められた。賛美は、実は賛美する者に恵みが与えられる、神の恵みの手段なのである。