「苦難から生まれた賛美」
「義人には災いが多い」、それは真理であるが、何故なのか。そのような悩みの中から素晴らしい賛美が生まれ、来るべき救い主の預言となった。
本詩篇は「アルファベット詩篇」であり、一節の初めがアルファベット順に並んでいる。ただ、「ワウ」が抜けており、最後の「タウ」の後にもう一度「ペー」が出てくるので、不完全なアルファベット詩篇である。(不完全と言っても内容に関してではない。アルファベットの順序は歴史的には流動的であったこともあり、それほどとらわれる必要はない。)
「分別を変え」は多くの訳で「狂ったさまを装い」等と訳される。「分別」は「味」という意味で、「マナの味は」(出エジ16:31)と使われる。そこから「判断」などの意味が生まれる。「挙動を変え」(サム上21:13)と意訳しても良い。
「彼は彼を追い出し」は文脈から「アビメレクがダビデを」。
<読まないで良い>「アビメレク」(王の父、の意味)は、サムエル記上21:10では「ガテの王アキシ」となっている。名前が異なる理由として、以下のような可能性が考えられる。(1)一人の人(特に王)が複数の名前を持っていたと考える。イザヤ9:5、創世記35:10、など。(2)称号もしくは呼び名のようなものであった。ペリシテ人は都市国家連合だったので複数の領主(王)がいた(サム上6:5)。その中で「アビメレク」(王の父)と呼ばれていた。(3)サム上21:11のアキシは27:2のアキシと同一人物ではなく父子であったので、区別して「王の父」と呼んでいる。<読まないほうが良かった>
44篇を歴史的事件と結びつけている表題だが、詩の内容は事件との結びつきを連想させることは出てこない。
「崇めまつる」は「祝福する」という動詞。本来は「ひざまずく」で、人に対しては「祝福する」と言う意味だが、神に対しては「祝福する」より「讃える」という意味になる。
「全ての時に」は直訳。「あらゆる時」(新改訳)や「どのようなときも」(新共同訳)ということ。良いときも悪いときも、どのような時にも神を賛美できるようにしていただきたい。サムエル記上21章の出来事と関連させると、逃げ場もなく、プライドも捨てなければならないような状況で、主を賛美する、ということ。
二行目は名詞節で、「絶えることがない」は動詞ではなく副詞。連続性あるいは中断すること無い行為を意味する。前半の「全ての時」と同じこと。
「彼への賛美」は直訳では「彼の賛美」だが、「彼」は主語ではなく目的語を示すので、「彼への」とした。
「主を」は強調的位置に置かれている。賛美の対象として「主を」としたが、手段として「主によって」あるいは「主にあって」と訳すこともできる。第一コリント1:31「誇る者は主を誇れ」を思い起こす。
「誇る」は「賛美する」(ハーラル)で、再帰形(自分自身に対する動作)の場合は「誇る」となる。普通は悪い意味で使うが、ここでは主を誇る(あるいは、主にあって誇る)という肯定的な意味。前節の二行に続いて神への賛美を述べているので、三行に渡る平行法と見ることも出来る。
「貧しい者」は貧しい故に苦しめられるので「苦しむ者」とも訳される。また、「へりくだる」、「謙虚」などの意味でも用いられ、詩篇の中で度々出てくる「正しい者」と近い意味で使われていると思われる。異邦人に苦しめられているイスラエルの民(契約の民)や、富める者たちに苦しめられている低い階級の者、などと理解する学者もいるが、そのような特定の人と考えなくても良い。苦難を経験した詩人が自分と同じように苦しんでいる人に対して呼びかける、という形を用いて、人々を賛美に招いている。
<読まなくても良いのに>「聞いて喜ぶ」、二つの動詞で、前者は(三人称に対する)命令形と理解することもできるので、その場合は「聞いて喜べ」となる。そうだとすると、この節の後半は次節と結びついていると考えられる。内容的にはそうだが、この詩篇がアルファベット詩篇であるため、形式的には現在のような区切りとなる。これによって、この節は「主への賛美の宣言」から「賛美への招き」へと主題を変換させる働きをしている、と考えられる。<読んじゃったでしょ>
「崇めよ」は命令形で「大きくする」という動詞。「大きくする」ことから「崇める、讃える」という意味となる。様々な語彙を用いて主への賛美を表している。
「私と共に」によって、前節で唐突に「私(の魂)」から「貧しい者ら」に賛美の主語が変化したかが理解できる。すなわち、詩人は自分が賛美したときの素晴らしい体験を、人々が自分と一緒に味わうことを願っている。
「掲げよう」は「高くする」という動詞。神の御名を高くする、というのも賛美の表現の一つ。
「主を求めた」は「主に求めた」と訳すこともできる。その場合は、「助けを」もとめたのが省略されていて、二行目でそれが明らかにされる。ここでは、もちろん助けを求めるのだが、助けの内容よりも助けてくださるお方に重点を置いている。
「彼は答えた」も、具体的には「助けを求める祈りに応えて助けて下さった」という事だが、ここでは詩人の求め(祈り)に対して応答してくださること自体に注目している。私たちもしばしば、何かを求めてそれが与えられた、という面を強調しがちだが、本当は神との人格的交わりが主体でなければならない。
<専門的な話です>三つの完了形が用いられている。散文では複数の動作が連続して起こったという場合は、完了形の後にワウ(接続詞)+未完了という形が続き、後者は「ワウ継続未完了」などと呼ばれる。しかし、ここではワウ+完了形が使われていて、時間的に連続した動作、という印象とは異なっている。もしそうなら、「祈った、だから答えられた、そして救われた」という印象よりも、個々の行為が完全になされた、という印象のほうが勝っているように見える。ただし、詩文における文法は散文(歴史的物語)とは異なるので、文法的にどのような形をしているか、よりも、どのように用いられているか、のほうを重視するべきである。<退屈な話、でした>
「見よ」は、「注視する」という意味で、ちょっと見るのではなく、よく見る、ということ。もちろん神を肉眼で見ることは出来ないので、これも主に目を向けるようにして祈る、ということを意味している。また、次の輝くということに意味的につながっている。
「輝け」は、神を見たことで神の光を受けて輝くということで、出エジプト記34章を思わせる。神の恵みを受けた者は、輝く者となる。
「恥じることがない」は、救われるから。救いを求める祈りの中で「はずかしめないで下さい」「恥を見させないでください」と訴えることがある。その祈りが聞かれた時、神を信頼する者が苦しむ、という「恥」が除かれる、という意味だろう。ここでは「恥じることがない」と直説法に理解しているが、三人称の命令形と理解することも可能で、その場合は新改訳のように「彼らの顔をはずかしめないでください」となる。しかし、その場合は接続詞の意味が分からなくなる。
この節で詩人は、自分が助けを求めて救われたので(4節)、他者にもそうするように呼びかけている。
「この貧しい者」とは詩人自身のこと。ここで使われているのは形容詞の単数形で、2節の「貧しい者ら」は(関連するが)名詞の複数形なので、これとは別。しかし、詩人は自分を「貧しいものたち」の一員として見ている。だからこそ、自分の経験を他の貧しい者たちに伝えている。「苦しむ者、悩む者」と訳すことも可能。
「呼ばわる」は「呼ぶ」という動詞。「主に呼ばわる、主を呼ぶ」は祈りの意味で使われることが多い。
「全ての彼の悩み」は、「彼」が詩人を指すので4節とほぼ同じ意味。ただし、4節は「恐怖」だが、こちらは「悩み」(または「苦しみ」、でも「貧しい」とは違う語)。
「救って」も4節とは異なる語。このように単なる繰り返しではなく、同じ意味を違う語を用いて表すのは詩文ではよくある。
「主の使い」は主に神からのメッセージを伝える存在。「周りに陣をしき」となっているが、単数形なので、天使の軍勢が取り囲んでいる(列王下6:17)とは違う。しかし、人数ではなく、神からの助けということは同じ。「陣をしく」は軍隊が陣営を張ること。
「彼ら」は「彼(神)を恐れる者ら」。
後半は一語なので、長さのバランスが良くないように見える。新共同訳は「主を畏れる人」を後半に移してバランスを取ろうとしているが、接続詞を無視することになる。このようにバランスを欠いた平行関係は、主に詩や段落の終わりに良く見られるので、ここも一つの区切りと考えられる。次節が命令形で始まっていることも、ここが区切りであることを示している。
「救い出す」は「引き出す、(履き物を)脱ぐ」などの意味で、苦難の中から救い出す、ということ。同音異義語で「戦いの装備をする」という語があって、「陣をしく」という戦争用語と適合するが、文法的には「救い出す」のほうが良い。
「味わい、見よ」と二つの命令形動詞をつなげる場合は、二つの別々の動作ではなく、ひとまとまりのことと考えられる。例えるならば、舌で味わい、目で見るように、良く知る、ということ。第一ヨハネ1:1でヨハネがキリストを「聞いて、見て、よく見て、手で触れた」と言っているのと同じ。単なる知識ではなく、自分の五感によって知るように、体験的に知る、ということ。
「まことに」は「〜こと」と訳すことも出来る。
「主は恵み深い」は直訳すると「主は良い」。神の素晴らしさを示す。
「幸いなるかな」は詩篇1:1と同じ。
「身を避ける」は「避け所、避難所」と関係する動詞の一つ。「彼(主)に身を避ける」でも良いが、前置詞を直訳した。
「畏れよ」と「畏れる者たち」は同じ動詞の命令形と分詞形で、この節の最初と最後に置かれている。
「彼(主)の聖なる者たち」は、形容詞の複数形で、神のものとされた人々。
「欠けること」は「必要、欠如」という意味の言葉で「乏しいこと」と訳される。単なる経済的な貧しさではなく、あらゆる事において欠けることがない。
「若き獅子ら」は強い動物の代表で、飢えることがないかのように思えるが、それでも食べる物が無くなって飢えることがある。ここの「乏しくなって」は前節の「欠ける」とは別の語。
「しかし」と前半とのコントラストを描いている。
「(主を)求める」は4節に出てきた動詞。
「あらゆる良き物」は「全ての良き物」と同じ。
「欠けることがない」は前節の名詞と同根の動詞で、これによって9節と10節がひとまとまりであると分かる。
また二つの命令形が(間に「子たちよ」という呼び掛けを挟んでだが)続いている。「来る」ことは同時に「聞く」ことにならなければならない。来ても聞かなければ、来た意味がないから。
「子たち」は、王が国民に呼びかける場合にも、また年長者が若者に呼びかける時にも使われるので、必ずしも実際の息子たち(あるいは子孫)で無くてもよい。箴言などの知恵文学でも「子」に対して「主を畏れること」を教えている。その意味で、この部分は教訓的な印象を受ける。
「主への畏れ」は直訳では「主の畏れ」で、1節の「主(へ)の賛美」と同じく、「彼の」は目的語を表す。
「誰だろう」は疑問詞なので文頭に置かれるのは普通なのだが、アルファベット順であることを強調するため、最初に訳した。「誰」と聞いているが、実際には全ての人が該当するので、これは修辞的疑問文であるのは明らか。したがって、「幸いな人生を送りたいならば、次のことを注意して聞きなさい」ということを述べており、その内容は次節に続く。
「生きること」は「生きている」という形容詞の複数形で、「命」の意味で使われる。単に生命がある、という事以上に、豊かな人生を送ることを意味する。
「多くの日々」は直訳では「日々」。命の長さを求めるのは旧訳時代の特徴で、同時に「長く幸せな人生」を望むのは人類一般に共通すること。
「悪しきことから守れ」とは、外部からの悪を寄せ付けないことではなく、むしろ自分の口が悪しきことを言わないように。「守れ」は「(見張りとして)見る」とも訳される。
「また」は、後半で動詞がないが、この接続詞がその代わりをしている。従って、「守れ」が省略されていると考える。
幸いな人生の秘訣、と前節で期待したのに、ここでは「悪いことを言わない」程度のことと思うかも知れない。しかし、舌を制することの重要性は新旧訳どちらでも教えられている。ここと次節では幸いな人生のための「一般的な教え」が述べられていて、箴言のように聖書の教える知恵は霊的、宗教的知恵に限らず、全ての知恵を包括している。
前半の「また」は「悪を離れる」ことと「善を行う」ことが一体であることを意味する。後半の「また」も同様に、平和を求めることは、すなわち平和を追い求めることである。「平和」は単に争いが無い無風状態ではない。それは波の無い池の表面のようで、一石が投じられるとたちまち崩れてしまう。「平和」は充ち満ちている状態。神の恵みが充ち満ちているなら、嵐が来ても恐れることはない。
この節も前節同様、一般的な知恵である。当たり前ではあるが、決して軽んじてはならない真理であり、これくらい単純明白なことでも、人は失敗しやすい。
この節は動詞が無く、「向けられている」等を補って理解する。
「義しい人たち」はこの詩篇の最初のほうに出てきた「貧しい者たち」と同義で用いられている。
「叫び」は助けを求める叫びのこと。
「目」も「耳」も、人間と同じものが神についているのではないが、一種の擬人法であり、丁寧にも「双数形」(二つ一組を表す複数形)が使われている。
13、14節が一般的真理であったのに対し、15節からは神との関係での真理が述べられている。
「向かって」は動詞ではなく前置詞で、敵対的な意味で使われている。神の顔が向けられるのも、良い意味でも、悪い意味でも使われるが、ここでは悪しき者に対して悪い意味で向けられている。
「記憶を断ち滅ぼす」とは完全に消し去ること。「断ち滅ぼす」は「切る」という動詞。
「地」は全世界を意味し、特に生きているものの住む世界。
14節で「悪を離れ」と教えている理由がここで述べられている。13,14節の「悪」と同じ語が使われて、13〜16節がひとまとまりとなっている。
「彼ら」が誰であるかは、この節では述べていない。直前の候補は「悪を行う者たち」だが、そうでないことは明らか。そこで15節の「義しい者たち」まで遡って理解する。しかし、「彼ら」がどのような者であるかは、次節以降で述べられていると考えるほうが良い。
「(全ての)悩み」は6節で、また「救い出される」は4節で使われている語。内容的にも17節は4節や6節で述べられていることと同じ。
「心」と「霊」はこの節では同じ意味で使われる。
「砕かれた」は動詞の受動態分詞で、「へりくだった」はその類義語の形容詞。どちらも「砕かれた、砕けた」と訳すことが出来る。心が砕かれた者はへりくだっている。ここまでは「貧しい者」、「義しい者」と呼ばれていたが、それは神の前にへりくだった者でなければならない。
「主は近い」とは、近くにいても助けてくれないのではなく、いつでも助けを求めるときに「救いって下さる」こと。
<読まないでね>「災い」は「悪」(13、14節)と同じ語で、女性複数形が使われている。「それら」は男性複数形なので、文法的には「それら」が「災い」を指すとは考えにくい。しかし、平行法では二行で異なる性の名詞を使うことが良くあり、ここでも同じ意味の男性名詞を想定している「それら」と考えれば、意味の上では同じ「災い」を指すと考えられる。<読んでも良いけどね>
義しい者に災いが(多く)ある、というのは一見、ここまで述べてきた事に反するようであるが、実に真理である。ただ、神は必ずその災いから救ってくださる、ということに重点が置かれている。「義しい者がなぜ苦しむのか」はヨブ記などでも取り上げられている重要な問題である。様々な回答が考えられているが、究極的には、真の義人であるキリストが罪を背負ってくださることによってしか、本当の解決は理解できない。その意味で、この節はキリストの十字架と関係している。
「守られる」は分詞形で、主語は省略されているが、文脈から前節の「主」であるのは明らか。
「その」は複数形で同じく複数形の「骨」を指している。
この節は十字架の上で成就した(ヨハネ19:36)。19節と共に考えるなら、ただ骨が折られなかったということを預言しているのではなく、義しい者についてであるから、(人類の罪の故の)災いを背負われたキリストをも、神は守られた、ということを預言している。そして23節にも続いている。
「悪」と「悪しき者」は類義語だが別の言葉で、「悪」は形容詞女性形、「悪しき者」は形容詞男性形。抽象名詞は女性形で、人は男性形で語られることが多いので、上のように訳される。
「死に至らせる」は「殺す」とも訳されるが、「死ぬ」という動詞の強意使役形。誰が殺すのではなく、自分の行っている悪そのものが悪人を死に至らせている。
「正しい者」は単数形で、「憎む者たち」は男性複数形の分詞。
悪い者とは、特に義人を憎む者とされている。旧約では基本的に悪人は裁かれ、義人が救われるので、新約のように罪人が救われるということは明確には語られない。だからこそ、十字架の救いは有難いことなのである。
「魂」は「命」を訳すことも可能。18節の「霊」とは違う語。全存在を意味することもある。
「贖う」はルツ記などに見られる「あがない」では無く、身代金を払って買い取るという意味での贖いだが、広い意味では同じように使われる。
「身を避ける」も「罪に定められない」も前に出てきた言葉。重要な語を再使用して全体をまとめて結論としている。
この節はアルファベットから外れているため、元々は別であったと考えることもできるが、内容的には21節と深く結びついており、むしろ2節に分けられているが本来は一つの長い節と考える方が良い。全体の結論であり、また「僕」の救い、贖いによる救い、という重要な主題を登場させている。「僕」は35:27、36表題へと繋がっている。
アルファベット詩篇の特徴として内容的には明確な区分がし難いことが多い。アルファベット順にするという制約があるため。
1〜3 主への賛美の宣言と招き
4〜5 救いを求める祈りの証しと招き
6〜8 救いの体験と信頼への招き
9〜10 主を畏れることの勧め
11〜12 教訓の言葉
13〜16 悪を離れ、善を行え
13〜14 一般的な教え
15〜16 神との関係
17〜20 主は正しい者を守られる
21〜22 結論:主に寄り頼む者は罪に定められない
義しい者(救われた者)は苦難が無くなるのではない。実際には正しい者、神に従おうとする者ほど苦難を味わうことがある。しかし、苦難の中で神に祈るときに、神はかならず助けてくださるのも真理である。なぜなら、私たちの罪は真の義人であるキリストが十字架で罰を受けて下さったことで身代金が払われ、無罪とされているから。だから決して神は見捨てたりはしない。