「三重の祈り」
苦難の中で人はしばしば同じ祈りを繰り返す。簡単明瞭に祈って「アーメン」と終わることが出来ないときもある。小林師はこの詩篇を「三重の苦難」と称した。
詩人は主が自分を敵の手から救うことを求めている。各節が神への願いを表す2つ、または3つの命令形を含んでいる。
「言い争う」は「戦う」の類義語で、主に言葉による争い。法廷での訴訟や弁護にも使われる。
「言い争う者」は「争う者、敵」とも訳されるが、上の「言い争う」と同じ語源の名詞なので、同じように訳した。「私と」としたが、「私の敵」とも訳せる。
「戦う者」は名詞ではなく「戦って」の動詞と分詞形。
「盾」は兵士が持ち歩く大きさ、「大盾」は全身を覆うほどの大きさ。誰の盾だろうか。人間のものとすると、実際の戦いの場をイメージするが、神のものとすると、どのような場面でも良いことになる。どちらであっても、強くしてくださるのは神だから、「盾」に頼るのではない。
「私の助けをもって」は前置詞を「手段・道具」と理解している。前置詞は様々な意味があるので、文脈から理解する。口語訳の「ために」は意訳だが、意味は正しい。
「抜いて」は「空にする」という意味の動詞だが、目的語が槍なので鞘のようなものから抜くことと理解した。
「立ちはだかる」は「閉じる」という動詞で、敵が向かってくる道をふさぐということ。口語訳は動詞ではなく名詞だと考え、2節のように二つの名詞が並んでいると理解している。ただし他に同じ語が無いので、「投げやり」としている。分からないから投げやりに訳しているのではない。
「私の魂に」は「私に」と同じこととしてよく用いられる表現。
「私こそ」は「私」が文の最後に置かれ、強調されている。
詩人を追いかけて滅ぼそうとしていた者たちが、逆に追われて滅びに向かうことで恥を受けることを願う。この部分は命令形ではなく、祈願や三人称の命令(誰々をして何々せしめよ)の形が続く。
<専門的には>三人称の命令形は未完了形を同じ形であることが多く、見分けが付かない。したがって、全体の意味から推し量るのだが、6節のように型の上でも未完了形と異なる者が含まれていることで、他のものも未完了ではなく三人称の命令形であることが分かる。<ということでした>
この節の4つの動詞は全て未完了形だが、祈願(新改訳、新共同訳)や三人称への命令形(口語訳)と理解する。どちらにしても「彼ら」がそうなるように神に求めているので、前節までの命令形と同じように助けを求める祈りであるのだが、口調が変わったことで新しい区分に入ったことが分かる。
「恥を見る」、「卑しめられる」、「辱める」は類義語。敗北の意味で用いられている。
「私の魂を求める」は前節の「魂」と同じ語が使われているが、こちらでは「命」の意味で使っている。
「計画する」は「考える」という動詞。「私」が災いを受けることを考え、そのために計画する。
「風の前のもみ殻」は1:4を思い出させる。悪人の末路である。「風の前」とはまだ吹き去っていないが、すぐにでもそうなる、ということ。
「押しのけますように」はここまでの動詞と違い、分詞形である。節の最後に来た動詞は、それまでの流れと違う形に変化することが多い。しかし、意味の上ではそれまでのものと同じに訳す。目的語が明記されていないが、「彼ら」であることは明らか。
<読むべからず>主語が「彼ら」から「彼らの道」(単数形)となり、「なりますように」は未完了形とは違う形になって三人称の命令形であることがはっきりする。<と言われると読みたくなる>
「滑りやすい」という言葉は珍しい形の名詞。「暗く、滑りやすい」とは、簡単に足をすくわれて倒れるような状態。そのような状態で、さらに主の使いが後から追いかけてくる。
「追い行きますように」は、同じ主の使いが前節では「押しのける」だけだったのが、さらに追ってくること。その行き着く先は滅びである。
人の命を求めて罠を張る者は、逆に自分の罠にかかる。「目には目を」に似ているが、あくまでそうするのは神であり、卑怯な者に対して神が正当な裁きを下されることを求めている。
「まことに」と理由や強調を示す接続詞で始まることによって、ここから新しい区分が始まることが分かる。また動詞もここから完了形となる。
「ゆえなく」がこの節に二度繰り返されている。通常詩文では省略して簡潔にするか、類義語を使って変化を求めることが多いのに、わざわざ同じ語を使うことで強調している。「ゆえなく」とは、「好意を持って」の反対語、「悪意を持って、正統な理由もなく」。「彼ら」の攻撃が、悪意によるものであることを示す。
<読むと分からなくなる>「穴を隠し、...網で求め」で、「求め」という動詞は「掘る」という意味もあるために、多くの訳が「穴」と「網」の位置を逆にして、「網を隠し、穴を掘る」とする。確かにそのほうが理解しやすいが、逆にありふれた表現となってしまう。ここは「穴を隠し、網を掘る」としたほうが、読む者の注意を引きつける。もちろん、「掘る」ではなく「求める」の意味で用いられている。また、同音異義語が4節で使われている(「退き」)ことも注目を受ける。「網で」としたのは、「求める」目的語は網ではなく「私の魂(命)」だから。「で」は道具や手段と理解しているが、ここでは前置詞が無い。<ややこしいでしょ>
この節では、前節までと異なり、敵が三人称複数から三人称単数となっている。これは敵たちの一人一人ということだろうか。三行の「彼」が同じ人物と考える必要はない。また、7節の完了形ではなく、再び三人称の命令または祈願と考えられる形が出てくる。これは7節の理由に基づいての願いだから。
「滅び」が1行目と3行目に出てきて、これまでの抽象的な「網」や「穴」の本質を述べている。1行目では敵のところに滅びがやってくるように、3行目ではその滅びの中に敵が落ち込むように、と主格が逆になっている。
「それも」は原文にないが、ニュアンスを明確にするために付け加えた。「知らない」は祈願ではなく、通常の未完了形と考えられ、前後と(性別も)違うため、括弧書きのような感じだから。7節では「ゆえなく」、すなわち詩人がその理由を知らないのに害を加えようとしていた。ここでは、彼らのほうがどうしてそうなるかを知らないで、神の裁きを受ける。
「彼が隠した網」は7節で使った言葉を再度使って、敵が自分の罠にかかることを明確にしている。
「その中」は文法的には必要が無い。それにも拘わらず付け加えているのは、強調するため。敵が詩人に滅びを与えようとしたが、まさにその滅びの中に敵が落ち込んでいく。
まだ具体的に救いが実現していなくても、神が必ず救ってくださると確信して、喜びを味わっている。喜びの内容は敵の滅びではなく、苦しめられている者の救いである。
「実に」は接続詞で、「その時」と訳すことも出来る。「私の魂」が強調的な位置に置かれているので、それに合わせて「実に」とした。
「喜ぶます」と「喜び叫びます」は類義語で、同じような意味だが、日本語で語を使って訳すのは難しい。
1行目の「にあって」と2行目の「によって」は同じ前置詞。「主によって」としても良い。喜びの中心は「主」であり、「主の救い」。「救い」は3節と同じ語。
前節では「私の魂」(女性単数形)が喜んでいたのが、この節では「私の骨」(女性複数形)が賛美を述べている。もちろん、どちらも「私は」と同じ事。
「誰があなたのようでしょう」は修辞的疑問で、答えは「誰もいない」。神に比べうる存在は無い。新共同訳は「あなたに並ぶものはいません」と思い切って意訳している。
「弱い者」は「貧しい者」と訳すほうが良いのだが、最後の行で類義語の「貧しい者」が出てくるので、それと違う訳をつけるため、「弱い者」とした。
「助け出す」は奪って救い出すこと。4行目では動詞が省略されているので、3行目と同じ動詞があると考えて理解する。
ここの敵は、「私」が善意をもって接したのに、悪意を持って訴え責める人々。
「暴虐な」は「悪い」と訳してもよいが、それでは原語の「厳しさ」が弱くなる。
「立ち上がる」のは、裁判の場で訴えるため、あるいは証人だから嘘の証言を述べため。
「問いかける」は訴えと同じ。新共同訳の「私を追求しますが、私の知らないことばかりです」は上手な意訳。
11節の敵たちのしていることを「善に替えて悪を報いる」ことだと評し、それは「魂の死別」だと言い表している。「報いる」はシャロームと関係する語だが、ここでは「満たす」、すなわち「報いる」(報いないままだと不完全だが、報いることで完全となる)という意味で使っている。
「死別」は、子を失うという意味でよく使われる。詩篇ではここだけに出てくる語。「魂の死別」とは、そのような悲しみと苦しみということだろう。新共同訳のように実際に子どもが奪われることと理解する必要はない。2行目は動詞が無く、長さも1行目より短いので、訳しにくい。
「実に私はと言えば」は「私」が強調的位置に置かれ、前節の「彼ら」と対比されているので、言葉(「と言えば」)を付け加えた。「私」が彼らのためにした善を述べている。
「私の服は荒布」とは、荒布を来て、悲しみや苦しみを表すこと。動詞が無いので補って理解する。
「祈り」が胸に帰ってくる、とは、一回祈ったらお終いではなく、何度も何度も祈ること。「私」は彼らのために祈り続けた。
この節は前節の「荒布」すなわち悲しみを前提として理解する。「歩き回る」や「うなだれる」は、悲しみの動作である。
「友のように、兄弟のように」は、詩人が「彼ら」の病いを考えるのに、まるで友か兄弟のように親身になって祈ったということ。
「母を悼むように」は直訳では「母の悼みのように」。
この節は理解するのが大変難しい。どこで区切ったら良いか、「打つ者たち」の意味は、「引き裂く」の目的語は、など、分からない事が多い。全体としては、「私」の恩に対して「悪意」を返す敵の姿を描いている。
「私が躓いた時」は、13節の「彼らの病の時」と同じ形。「躓いた」は動詞ではなく名詞なので、直訳すると「私のつまづきの時」。
「集まりました」という語が二つ連続して出てくる。二つで一組と理解すれば「どんどんと集まった」という意味かも知れないが、通常同じ動詞を重ねるときは片方を不定詞にするので、この可能性は少ない。
「私を打つ者たち」の発音を一部変更して、「私の知らない」と一緒にして、「他国の者」と理解する者もいる(口語訳)が、変更する必要は無い。
「私は知りませんでした」の目的語は、この行の前半全体(集まったこと)か、あるいは「打つ者たち」。関係代名詞を使っていないので、散文ならば前者と考えられるが、詩文なのでどちらとも言い難い。
「引き裂きました」の目的語は、彼らの衣か、「私」。前者ならば、この行為は悲しみ(特に弔い)を表すこともあるが、むしろ怒りを表すと考えられる。後者ならば、肉体的な意味よりも、厳しい訴えのことを指すと考えられる。「曲げる」と理解することも出来るが、その場合、彼らの証言(11節)を「曲げる」という事だろう。次節と合わせると、訴えや嘘の証言を指すと考えられるが、それらの行為によって「私」が(精神的に)引き裂かれた、と考えるのが良いと思う。
この節も大変難しい。直訳すると「パンの嘲りの汚し事をもって、私に向かって彼らの歯をこする」となるが、意味が分からない。
「取り囲み」と訳したが、原文は「パン」という言葉。ここと、列王上17:12だけに出てくる。丸い形のパンと考えられ、その元となる動詞は「パンを焼く、丸くする」という意味だと推測されるので、ここでは丸くなる、すなわち「取り囲む」と理解した。
「汚し事」とは神を汚すような言葉。口汚い言葉で嘲っている様子。「私を取り囲んで、汚れた言葉で嘲り」と意訳すると分かりやすい。
「歯ぎしりをする」(直訳では、「彼らの歯を歯ぎしりする」)は強い怒りを表す行為。
16節までの状況の中で詩人は神に助けを求め、助けてくれたら神を賛美することを誓う。
「主よ」は固有名詞の「主」(ヤハウェ)ではなく、神に対して使う「主」(アドナイ)という名詞。「ヤハウェ」と書かれているところでは「アドナイ」と読み替えるため、事実上は同じ意味。
「どれだけ」は「何のようでしょう」が元々の意味。数や量の多さを尋ねるときにも使い、「日々」という言葉と一緒に使うと、「何年ですか、いつまでですか」という意味になるが、13篇の「いつまでですか」とは異なる言葉。ここでは「どれくらい見たら(眺めていたら)」助けの手を出してくれるのですか、という意味。このような言い方は、必死の、時には批判的な音色さえ感じるほどの緊急の求めであり、それだけ危険な状況であることを思わせる。
「彼らの滅び」は8節に出てくる言葉。彼らのもたらす滅び、あるいは破壊を意味する。
「(私の)命」は名詞ではなく形容詞で女性形。男性形の場合は「ひとり(息)子」の意味で使われる。女性形だと、「唯一のもの」という意味。人にとってたった一つしかない「命」を意味すると考えられる。「私の魂」と平行しており、「魂」も命の意味で使われている。 「若き獅子」、すなわち力に満ちた獅子で、敵を比喩的に語っている。動詞が省略されているが「助けてください」ということであるのは明らか。
「大いなる」は大きさではなく数の多さ。「会衆」は「集会」とも訳され、特にイスラエルの民が宗教的行事のため集まること、あるいは国民の全体会議。新約ではこの言葉のギリシャ語訳が「教会」という意味で使われるようになる。
「感謝をします」は「投げる」という動詞で、「感謝する、賛美する」の意味で使われる。後半で「誉め称える」があるので、「感謝」とした。「します」は単なる未完了ではなく、意志や誓いを示すと理解している。
「数多くの人々」は「強い民」とも訳すことが出来る。人数の多さを意味し、単数形の「民」は特にイスラエルの民を指すことが多い。「数多くの民」とすると複数の国民(イスラエルだけでなく、多くの国民、民族)となり、意味が曖昧になるので、敢えて「人々」と意訳した。意味としては平行している「大いなる会衆」と同じこと。
「誉め称えます」は「ハーラル」。
偽りや欺きに満ちた姿を描いている。19節でそのような者からの助けを求め、20から21節でその理由として彼らの悪しき態度を述べている。
「偽りによって」は前置詞を補って理解している。新共同訳の「不当に」も良い。敵たちの悪しき企てによって「私」が倒され、そのような不当なことで喜ぶことが無いように、という願い。
「喜ぶことをさせないで下さい」は三人称の命令の否定形。「喜ばせないで下さい」ということ。
「ゆえなく」は7節に出てきた言葉。悪意を持って、という意味。
「目配せをする」は嘲りや悪意を示す態度。
「まことに」を、理由を表すとして、「からです」と訳しても良い。
「平安」は「平和(シャローム)」で、平和について語るということかもしれない。挨拶の言葉が「シャローム」(あなたに平安があるように)であって、それは単なる儀礼ではなく、相手の上に神からの平安(平和、満ち足りた状態)があるようにとの祈りであると考えれば、他の人のために「シャローム」と言うことをしない敵の姿と考えられる。
「地の」は地上の、すなわち全世界のと考えることも出来る。特に、イスラエルの地を指す場合もあり、神の民の中で、穏やかな生き方をしている人々。
「計画しています」は4節で使われている言葉。
ここの「そして」は前節とのつながりを強めている。前節では「穏やかな人々」に対する悪意であったが、この節ではその一人としての「私」に対する悪意ある言葉が語られる。
「口を大きくする」は嘲りの態度のひとつ。「あはぁ」も嘲りの表現。
「見た」は単数形の動詞だが、「我ら」も「目」も単数ではない。理由は分からない。何を見たか、どのような意味で「見たぞ」と言っているのか、詳しくは分からないが、嘲っているのは確か。
前半では神が早く祈りに応えることを求め、後半は神が正しい裁きを行うことを求めている。最後の節(27)は、喜びの言葉を生じさせるようにとの求めで、28節の賛美へと繋がっている。
前半の「主」はヤハウェで、後半は「アドナイ」。区別して訳すのは難しいので、新改訳のように前者を太字にするのも苦肉の策である。
「ご覧になりました」は、前節までの詩人の苦境を神は見ておられるはずだから。それなにの沈黙するのは、その状況を是認していることになり、神の義に反する、と詩人は考えて訴えている。
「起きあがって」「目を覚まして」は動作としては順序が逆のような気もするが、別々の動作ではなく一つのことを指している。神が寝ている、とは異教の神々のようだが、これも必死の祈りにおける言葉と考える。
「私の裁き」は「私の訴え」に対して神が行う救いの業。平行して用いているので、これも二つで一つのこと。「私を救うために」と同義。
「あなたの義にしたがって」は、「私の義」(7:8)ではなく、神の義。神のご性質に照らすならば、悪人が勝ち誇っている状況は正させるべき。そのような裁きを「私」のためにしてください、ということ。前節の「裁き」(名詞)に対してここでは動詞が用いられている。
「主よ」はアドナイではなくヤハウェ。2行目が短くなってバランスが悪いので、この呼び掛けは両方の行にまたがっていると考えた方がよい。
「彼らに言わせないで下さい」は両方の行に同じ形で出てくる。「心の中で」は実際に口に出さないで心の中で考えることだが、神には全て聞こえている。後半では「心の中」がないが、前半との同じ事。
「我らの願いだ」は、「願ったとおりだ、思い通りだ」ということ。
「恥を見る」と「辱められる」は4節では平行関係に置かれていたのが、ここでは一組にされて用いられている。人の不幸を喜ぶ者は、神の裁きが行われたときに恥を見る。
「驕り高ぶる」は「大きくなる」という動詞で、再帰形ではなく使役形だが、自分自身を大きくするという意味で使われている。
「恥と侮辱を着る」とは服を着るようにいつも恥を見ること。
「私の義」は、神の裁きの結果として悪人たちが罪に定められ、それに対して彼らが偽証によって有罪としようとしていた「私」が逆に義と定められること。「私の義」は「神の義」なくしてはありえない。
前半に「喜ぶ」が三回出てくるが異なる言葉である。「喜ぶ者」は2行目で「喜ばれるお方」と同じ(複数と単数の違いがあるが)。「喜び叫び、また喜ばせて」は、日本語としては逆の順番で「喜び、叫ばせて下さい」のほうが自然に感じる。
「平和」(シャローム)は位置足りた状態を意味するので、「繁栄」と訳すことも出来る。
助けを求める祈りの最後に賛美の誓いが来るのはよく見られる形式。
「私の舌もまた」は、前節で人々が喜んでいるのに続いて。したがって、神様が正しい裁きをして詩人を救い、それを見た人々が喜びの声をあげるように神様がしてくださったら、ということ。
「口ずさみます」は1:4と同じ言葉。
「一日中(ひねもす)」は「日(単数)の全て」。動詞が省略されているが、賛美を語る、あるいは歌う、ということ。
1〜8 助けを求める祈り・・・命を奪おうとする者たちからの救い
9〜10 賛美の誓い
11〜17 助けを求める祈り・・・偽りと悪意の証人たちからの救い
18 賛美の誓い
19〜27 助けを求める祈り・・・欺きを行う者たちからの救い
28 賛美の誓い
三重構造となっているが、別々の祈りではなく、同じ者たちの三つの面を訴えている。
詩人は同じような祈りを三回(完全数)も繰り返している。「くどくど」(マタイ6:7)とした祈りのように感じる。しかし、自分では解決できない苦境や追い迫っている危機の時に必死で祈ることを、神は決して退けられない。ダビデだってこのような祈りをした。イエス様もゲッセマネの園で3回同じ言葉で祈られた(マタイ24:66)。何度でも諦めずに祈り抜く祈り手となろう。