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詩篇36編

「恵みによる救い」

悪人によって苦しめられるとき、相手を非難するだけなら、自分も同類になる。信仰者は何に目を向けたら良いのだろうか。

この詩篇は3部構成で、詩篇の中に出てくる「知恵の詩篇」、「賛美の詩篇」、「個人の嘆き」が入り交じって、一見バラバラのように見える。しかし、祈りの中には様々な要素が含まれることが良くある。

私訳と注釈

表題

指揮者に、主の僕に、ダビデに

同じ表題が18篇にあるが、こちらは歴史的な説明が書かれていない。

「主の僕」と呼ばれるのは、歴史書などではモーセかヨシュアだが、詩篇ではダビデ。

1節

悪人への罪の語りかけが、私の心の奥にある、
彼の目の前には、神への恐れが無い。

「語りかけ」は「託宣、言葉」などと訳され、多くの場合「主の」と共に使われている。預言書では「主の言葉」「主の託宣」として用いられる。人の言葉として用いられる例も少しある。ここでは「罪」(後述)が語っている。

<細かい話>「悪人への罪の」は、どちらも「罪」に関わる二つの名詞が使われていて、いくつかの可能性が考えられる。(1)どちらも抽象名詞の人格化と考え、「罪が悪に語りかける」とする。心の中での悪い考えのこと。(2)どちらも人と考え、「罪人が悪人に語りかける」、つまり、悪い者たちの会話。(3)片方は抽象名詞、もう一方は人。「罪人が悪に語る」は意味を成さないので、上の訳のように「罪が悪人に語りかける」と理解する。心の中の、罪に誘う言葉。実際の会話ではなく、詩人のイマジネーションなので、どれでも可能だが、2節以降を見ると、抽象名詞よりも、実際の人(単数)が登場するので、(3)が良い。単数形だが、特定の個人では無く、集合名詞的にそのような人々を指している。<細かい話でした>

「私の心の奥に」は、直訳だと「私の心の真ん中に」。「私に」が文脈に合わないと考えて、「彼の」とする説を採用している訳もある。新共同訳は「私に」のままで、上手に訳している。(神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。)

「ある」は原文には無い。名詞節なのでなにかの動詞を補って理解する必要がある。新共同訳は「聞こえる」を補っている。他の訳は「語りかけ」を動詞のように訳して「言う、語りかける」としている。

「神への恐れ」は直訳では「神の恐れ」。敬う意味での「畏れ」とは違う言葉で、恐怖の意味の「恐れ」として使われる。人や災いを恐れる場合と、神を(恐怖の意味で)恐れる場合のどちらの用法も少なくない。ここでは悪人が神を恐れていること。敬う意味での「畏れ」が悪人の内に無いのは当然だが、悪に浸りきってしまうと神を恐れることさえも無くなり、当然のように罪を犯すようになる。詩人は、そのような罪人の罪深さを述べることで、聞く者たちに警告している。

2節

まことに彼は彼の目で見て彼に甘くする、
彼の不義を見つけだし、それを憎むことについて。

この節を理解するのは大変難しい。4回出てくる「彼」が誰(「神」か「悪人」)であるかで意味が変わってくるから。ここでは全て1節の「悪人」であるとする。

「彼の目で見て」の「見て」は原文にはなく、直訳では「彼の目において」、もしくは「彼の目をもって」。意味の上では「彼の目で見て」ということになる。神の目という視点が欠けている。御言葉に照らし合わせなければ、人間は自分の目で見て分かったつもりになり、間違った判断をしてしまい易い。

「彼に甘くする」は「(自分に)へつらう、おもねる」などと訳されることが多いが、元々の意味は「滑らかにする」。「舌」が滑らか、と理解して「へつらう、お世辞を言う」という意味でも使われる。自分にへつらう、というのは分かりづらい。この節では使役形なので、「(自分を)滑らかに扱う」という意味と考えられる。誰でも、他者への評価は厳しくても、自分に対しては甘くなりがち。特に、自分の罪に対しては、それを認めるのはなかなか出来ない。

「彼の不義を見つけだし、それを憎むことについて」も訳が難しいところ。口語訳や新共同訳は否定詞を補って、「自分の不義が現されないため、また憎まれないため」(口語訳は受動態として理解している)、あるいは「自分の罪を認めることも、それを憎むことも出来ない」(新共同訳は能動態としている)と訳している。ここでは前置詞を「について、に関して」という意味で理解してる。前半の「甘くする」と結びつけ、自分の罪を認めることにも、それを憎んで離れることについても、自分に対して甘い、ということ。

3節

彼の口の言葉は、悪意かつ欺き、
彼は善を行おうと考えることを止めた。

「言葉」は複数形だが、意味の違いは特に無い。

「善を行おうと考えること」と二つの動作を結びつけている。これを接続詞が省略されていると考え、「知恵を得ることも、善を行うことも」(新改訳)と理解する訳が多い。その場合、「知恵」とは神から来る正しい知恵のことになるが、箴言などで使う「知恵」は違う言葉なので、少し無理がある。「考える」は「注意深くする、熟考する」という動詞。善を考えても行わないのではなく、考えることすら止めてしまっている。

4節

彼は彼の寝床の上で悪事を謀り、
良くない道に自分を置いて、
悪は退けようとしない。

長さのバランスはあまり良くないが、3行に分けることが出来る。ここまで2行ずつだったのが3行になって、一つの区分の終わりを示している。

「寝床の上で悪事を謀り」とは、寝ている時も考えることは悪いことで、書かれていないが、次の日に起きた時、それを実行する、という考え。ミカ書2:1に似たような表現がある。

「良くない道に自分を置いて」は、悪い道(生き方)の上に堅く立つこと。詩篇1:1を連想させる。

 

1〜4節は、知恵文学(箴言など)や預言書によく使われる、悪人の姿を描く。箴言では、悪人の生き方を述べて、それを選ばないようにと勧め、(神からの)知恵による生き方、正しい生き方を示すが、この詩篇では5節以降は神についての叙述になっている。

5節

主よ、あなたの慈しみは天に、
あなたの真実は雲の上にあります。

詩人は一転して、神の素晴らしさに目を向ける。「慈しみ」は「ヘセド」で、憐れみ、また契約の愛。

「天に」、「雲の上に」の後の動詞が省略されている。ここでは最も一般的な「ある」を補っている。口語訳などは「(にまで)及んでいる」としているが、下から上に向かうイメージで、原文では「天の中に、雲の上に」と上が起源となっている。神の愛は神ご自身から流れ出ている。

6節

あなたの義は神の山のよう、あなたの裁きは大きな淵、
あなたは人も獣も救われます、主よ。

「あなたの義」と「あなたの裁き」が平行している。どちらも神の正しさを表す言葉で、救いの意味でも用いられる。後半と合わせて、ここでは救いの意味と考えて良い。

「神の山のよう」は神の義の大きさ、高さを意味する。「山」は複数形。「神の山」はシナイ山あるいはホレブ山を指す場合が多いが、ここでは特定しない。むしろ、神が住みたもうに相応しいほどの山。

「大きな淵」のあとに前置詞「のように」が省略されている。山に対して、深さを表す「淵」が使われている。「淵」は海の深い所を意味する言葉。

「人も獣も」は、ここでの救いが罪からの救いに限定されない、より一般的な意味での救いでることを示す。

「主よ」は最後に置かれ、5節で最初に置かれているのと逆になっている。5〜9節は神の素晴らしさを述べている点でひとつの区分をなしているが、その中でも、5〜6節はさらに小さなまとまりとなっている。「天、雲、山、淵(海)」といった用語を使っているが、神の創造の業についてではなく、それらと比較してもさらに大きい神の恵みを語っている。

7節

神よ、あなたの慈しみは何と尊いことでしょう、
人の子らはあなたの翼の陰に身を避けます。

「何と」という疑問詞で始まっていて、新しい区分に入る。前節までは「天、山」などの被造物との関連で神の素晴らしさを述べていたが、ここからはより直接的に語る。「慈しみ」は5節と同じ語を使い、5〜6節と無関係ではなく、繋がりもあることが分かる。

「人の子ら」は人間のこと。前節の「人も獣も」に比べると、ここからは人間への神の恵みに焦点が絞られてきている。

「翼」は双数形(二つ一組)。神を被造物(ここは鳥)に例える詩的表現。

「身を避けます」は「避け所」と同じ語源。

8節

あなたの家の豊かさから彼らは飽き足り、
またあなたの喜びの流れからあなたは彼らに飲ませられます。

「豊かさ」は直訳すると「脂肪(油)」で、豊かさを表すシンボルでもある。「あなたの家」は神殿(幕屋)を指すのかもしれない。その場合は「脂肪」は捧げられた動物のもの。あるいは天の「神の家」。どちらにしても脂肪(最高の部分)を神様は豊かに与えて下さる。

「飽き足り」は「(飽き足りるほど)飲む、潤う」ということだが、後半で「飲む」があるので前半では省略した。

「喜びの流れ」が具体的に何を意味するかは分からないが、「豊かさ」同様、神の恵みを示している。「流れ」は「川」でも良い。

<読んでも面白くないよ>「あなたは彼らに飲ませられます」は、前半が三人称複数の主語だったのに対し、後半は単数(かみ)が主語で複数(彼ら)が目的語である使役形を使い、文法的には異なる形で同じこと(彼らが飲む)を述べている、典型的な平行法。<だから言ったのに>

9節

まことに命の泉はあなたと共にあり、
私たちはあなたの光に光を見ます。

「命の泉」は前節の水のイメージを受け継いでいる。箴言10:11などにも出てくる表現。命の元であるお方は神ご自身だが、命の泉が神と「共に」あるとして同一視を避けている。

「私たち」と、今までの三人称複数から一人称に推移している。

「光に光を見ます」は日本語としては変な表現。「光によって光を見る」(口語)や「光の内に光を見る」(新改訳)などが意味を良く表している。水から光にイメージが移った。どちらもヨハネ福音書で使われるモチーフ。小林師は「光」を「啓示の光」としている。神からの光によってのみ、人は神を知ることができる、ということ。

 

5〜9節は神の恵みの豊かさを述べている。神への賛美でもあるが、この神の恵みに基づいて10節以降の嘆願がなされている。「悪人、罪」に対して「正しい者、善」を語ることが(特に箴言などで)多いが、二元論ではなく神中心である。つまり、悪(人)に対して、自分の義(善)で対抗するのではなく、神の義、神の恵みによる救いに信頼するのである。だから神に助けを求めることが出来る。

10節

続けて下さい、あなたを知る者たちにあなたの慈しみを、
あなたの義を心の真っ直ぐな者たちに。

「続けて下さい」を、口語訳は「絶えず」と意訳している。原意は「引き出す」なので、新改訳の「注いでください」は無理がある。意味の上では「続けて施して下さい」ということ。前節までで、神の恵みが豊かに与えられてきたように、困難(11節)のある今も続けて注いで下さい、という訴え。

「慈しみ」と「義」は5〜6節で出てきている。2節にまたがっていたものをペアとすることで、ここでは書かれていない他のもの(真実、裁き)も含むことが出来る。

「あなたを知る者たち」と平行しているのが「心の真っ直ぐな者たち」。単に「正しい」のではなく、神の恵みを知っている、すなわち心が神に向かって真っ直ぐに向けられている者たちのこと。正しいから、あるいは善行を行っているから救われるのではなく、神の恵みを知って信頼する者を神は救ってくださる。

11節

高慢な足が私のところに来ませんように、
また悪しき者たちの手が私を追いやりませんように。

二行とも未完了で、三人称への命令あるいは祈願と理解することが出来る。口語では「ゆるさないでください」と訳している。

「高慢な」は女性形なので「高慢な者」と訳すことは文法上は出来ないが、「高慢な足」は高ぶる者たちの足であるのは間違いない。

「来ませんように」は後半の「追いやる」に合わせて、追いかけてくるの意味だと思われる。

「追いやる」は「行ったり来たりする、うろつく」という動詞の使役形で、「うろつかせる」、すなわち「避難民にする」ということで「追いやる、追い出す」と理解できる。この詩篇では初めて「私に」と詩人自身に言及している。救い(10節)を必要とするのは、このような詩人の状況であり、1〜4節で述べていた悪人たちに苦しめられていたのだと分かる。だとすると、1節の「私のこころ」が現実味を帯びてくる。「追いかけて来て」いる悪しき者達の「声」が聞こえていたのだと考えられる。

「悪しき者たち」は1節でも出てくるが、こちらは複数形。

12節

そこに悪事を行う者たちは倒れ、
彼らは押し倒されて、起きあがることはできない。

「そこに」を、小林師は「見よ」の意味だと説明するが、後ろに追い迫っているという前節の状況を考えれば、詩人が捕まえられる前に、迫っているその場所で倒れる、ということだと理解できる。

「悪事」は1節と4節に出てくる。1〜4節に述べられ、11節で追い迫っている者たち。敵への恨みや復讐では無く、義なる神による正しい裁きが、悪しき者たちに下されている。

「押し倒され」は「押す」という動詞。神の力によって押し倒される。あるいは押さえつけられて、立ち上がれなくなる。

この節は詩の最後としては合わない気がするが、完了形を用いて、神の救いが成されることを確信している点で、救いを求める詩篇としての結論となっている。また、悪しきものの姿を述べて始まったので、彼らの最後(神の裁きがなされた結果)を描いて終わって、詩篇が完結する。

構造

    1〜4  悪しき者の姿
    5〜9    神の恵み
   10〜12 神の裁き

メッセージ

悪しき者に囲まれている時、害を与えようとする者が追い迫っている時に、詩人は神の慈しみを仰ぎ見た。神の目から見るなら「悪人」と自分は五十歩百歩であって、そこに救いの根拠はない。雲よりも高い神の恵みこそがあるからこそ、救いを求める事が出来る。神の豊かな恵みをいつも思い描こう。