「主に信頼する者への祝福」
一時的には逆のことがあっても、必ず悪しき者は滅び、正しき者は祝福される、という神の原則がある。実際の世界ではこの原則が崩れているように感じることがあるが、永遠の世界まで含むなら、この原則は真理である。詩篇の多くが「正しい者、信仰者が苦しめられる」という状況を歌っているため、この原則を忘れやすいが、時々、このように原則に戻っていることは大切である。
この詩篇はアルファベット詩篇で、一文字欠けてはいるが、各部分の最初の文字がアルファベット順となっている。この種の詩篇では、思想の流れは掴みにくく、同じような主題が繰り返されて出てくる。
この部分は、悪を行う者たちが滅びる、という37篇全体にわたる主題と、「怒るな」という序盤にのみ出てくる副主題(1節と7、8節)が述べられている。多くの詩篇でそうであるように、この最初の部分は明白な平行関係となっている。
「悪をなす者」を初めとし、この詩篇にはいくつかの言葉で悪い者たちを描いている。これは「悪い事をする、傷つける」という動詞の分詞形。「ラア」(悪い)という形容詞と関連する動詞。
「故に」と訳した前置詞は様々な意味で使われるので、可能性が広く、一つに特定するのは難しい。が、少なくとも「彼らを(怒るな)」と目的語を示すとは考えにくい。彼ら「の故に」(口語)、「に対して」(新改訳)、「のことで」(新共同訳)のどれも良い。
「怒りを燃やすな」は「燃える」という動詞の再帰形で、自分自身を燃やす、すなわち「怒りによって燃える」という意味。日本語の「カッカとする」ということと同じ。
「不義を行う者」は「不義」と「行う者」と二語。前半の「悪をなす者」は一語。共に複数形。「不義」は「正しく無いこと」で主に詩文で使われる(ヨブ記で10回、詩篇で9回)。
「ねたみを起こすな」も「怒りを燃やすな」も未完了形の動詞に否定詞を付けた形で、否定の命令形を意味する。
「まことに」と強調的に訳したが、「からである」として1節(で「怒るな」と命じていること)の理由とも考えられる。悪人たちはすぐに滅びるのだから、怒るな、ということ。
「すぐに」と訳したのは「急ぐ」という意味の副詞。口語訳の「やがて」はのんびりしすぎ。
「青草」は「緑の」「草」ということで、この「草」は詩篇ではここと23:2だけに出てくる。前半の「草」は詩篇では6回、イザヤ書でも9回使われている。
この部分では「怒るな、悩むな」という否定的命令に対する肯定的命令「神に信頼せよ」が述べられている。3節には4つの命令形が用いられ、4節の最初もそれに続いて命令形が使われている。4節後半は命令形ではなく未完了形でなので、「そうすれば」と理解できる。「神に信頼して正しい生き方をせよ」はこの詩篇全体を覆っているテーマである。また箴言などでも繰り返されている。
「主に信頼する」ことと「善を行う」こととは別個のことではない。神に信頼するからこそ神の喜ばれる生き方(善)をするのである。「善」は「良い」という形容詞・名詞で最もよく使われる。
「この地に住み」は後の方では「地を受け継ぐ」という表現になる。ただ住むのではなく、定着する、という意味。「地」は冠詞も無いため、どこの地を表すか分からないが、詩篇の中では冠詞を省略することは少なくないので、「この地」あるいは「約束の地」と考えるのが妥当。口語訳では「(この)国」としているが意訳であって、国家としての場所ではなく、神の与えられた場所。
「真実を養え」は意味が分かりにくい。「真実」はアーメンと関係する名詞で、「不動、真実、忠実」などの意味がある。「養う」は動物(特に羊)の群れを導くことで、比喩的に指導者や王が民を導くことにも使われる。この動詞と名詞の組み合わせが分かり難いので、口語訳「安きを得る」や新共同訳「信仰を糧とせよ」はかなりの意訳をしている。この節では「善を行え」と平行しており、真実な生き方をすることによって、自分のうちに真実さを成長させること、という意味だろう。
「(主を)自分の喜びとせよ」は「非常に喜ぶ」という意味の動詞の再帰形。主に関して自分自身を非常に喜ばせる、ということ。この神を喜ぶということ抜きに後半の「願いを適えられる」(口語訳)だけを見ると御利益信仰になる。新約で「神の国(支配)と神の義を第一とせよ、そうすれば・・・」ということと通じている。神ご自信を喜びとする心があるなら、どんな祈りも神の御旨に適うことができる。
「与えて下さる」は、「願いを与える」つまりそのような思いを起こさせる、ということではなく、「願ったものを与えて下さる」ということだろう。「願いをかなえてくださる」は正しい意訳。
この部分では「信頼せよ」という命令が「義・正しさ」という主題と結びつけられている。
「移せ」と訳されている言葉は「ころがす」という意味。転がして移す、すなわち神様の手に手渡すという意味で「ゆだねよ」と意訳される。「道」すなわち人生の全てを神様に委譲するとき、神様が主である生き方になる。
「彼が」が強調的に代名詞が使われ、自分ではなく彼(神)が、というニュアンス。自分で成し遂げるのではない、神がしてくださる。「成し遂げ」は「行う」という一般的な意味の動詞。
「あなたの義を・・・現して下さ」ることが神に委ねた結果。4節の「願いを適え」もそうだが、「主が成し遂げてくださる」とは他のことではなく、私たちを通して神の義が現されることが目的でなければならない。私利私欲を「現して」はいけない。
この部分は1節だけだが、長さは他の部分と変わらない。「主に信頼する」という積極的な面に対する、「主を待ち望んで忍耐する」という消極的側面が教えられている。後半は次の部分に繋がっている。
「沈黙し」とは祈ってはいけないということではなく、むしろ祈り終わって、後は神様に委ねている姿。単に黙るのではなく「主に向かって」の沈黙。
「身もだえする」とは体を震わせる行為で、踊るときや、出産の苦しみを示す。ここでは苦しみのなかで神を待ち望むことを表している。信頼には忍耐が伴う。
悪しき者を「自分の道を栄えさせる、悪い企みを実行する」者と表現している。「怒りを燃やすな」は1節と同じ言葉。
ここでは最初の部分(アレフ)と同じく、「怒るな」ということと「悪い者は滅びる」ということが述べられ、ここ以降は「怒るな」というテーマは直接は出てこないので、ここまでが一つのまとまりであると考えられる。
「解き」は「沈む」という動詞。「捨てよ」と平行して、怒りを離れる意味で使われている。
「怒り」は「鼻」という名詞で、鼻息が荒い、すなわち怒りを表す。「憤り」は「熱い」という意味で、カッカとすること。「怒りを燃やすな」は1節、7節と同じ言葉。
「悪を行う」は「悪をなす」(1節)と同じ動詞。悪しき者に怒っていると、いつしか自分も同じ罪を犯すようになる。「至る」は原文にはないが動詞が省略されているので補って訳した。
「切り倒される」と受動態ではあるが、神が悪しき者達を滅ぼすことを暗示している。2節では自ら「枯れる」としていたことが、ここでは神の裁きであるということに発展している。
「切り倒され」は詩篇で14回使われているうち、37篇に5回も出てくる。悪しき者に対する神の裁きの表現。
「主を待ち望む者」すなわち主に信頼する者は「地を(受け)継ぐ」。これら二つの主題はこの後も何度も繰り返され、重要なテーマである。「こそ」は「彼ら」という強調的な代名詞を意訳している。
9節で述べていたことと同じことを発展させている。いなくなることを前提として、この後、悪しき者たちの姿が表現されていく。
「暫くして」は慣用句で、短い時間を意味する。神の目から見れば悪しき者の栄えるのは一瞬である。
「いなくなる」は単に「ない」という言葉。「暫くして」と合わせて意訳している。
「彼の所」は、彼の住みか、居場所。「彼はいない」は「いなくなる」と同じ表現を使っている。
「しかし貧しい者たち」と、10節の「邪悪な者」と対称的に述べるため強調している。「貧しい者」は貧しく、それゆえ苦しめられている者たち。
「地を受け継ぎ」は9節と同じ。「自分の喜びとする」も4節に使われている言葉。
「豊かな平和」は「平和の多さ」あるいは「多くの平和」。「平和」とは全てが満ち足りた状態。神の与えて下さる地を受け継ぐとはそのような平和を享受すること。クリスチャンにとっては天国のことであり、その一部を地上において味わうことができる。
悪しき者たちの空しさを、彼らの怒りと神の笑い(嘲笑)により表現している。彼らは悪しき事を「企む」が、神は彼らの最後の日をご存じである。
「悪しき者」が「義しき者」に対して悪事を働く、というのは多くの詩篇に出てくるモチーフ。「悪しき者」は「邪悪」という意味の悪さ。「義しい」は義を表す言葉で、「正しい」は真っ直ぐという意味。同義語として用いられているので、意味の違いは理解に影響しない。
「企みをし」は「熟考する、何かをしようと決意する」という意味で、悪い意味では「企みをする」ということに使われる。
「歯ぎしりをする」は、日本では悔しさを表すジェスチャーだが、聖書では怒りを意味する。
「歯がみする」などとも訳される。
「しかし」は原文にはないが、「主は」が強調的位置に置かれて、「悪しき者」と対称的に描かれているので、そのコントラストを表すために付け加えた。
「彼の日」は「最後の日」ということ。新共同訳では「定めの日」。神の裁きの表される時。「彼の」は「悪しき者」を指すと考えられるが、神を指すとしても、預言書なのでは「主の日」という表現が良く用いられ、終末における神の裁きの日を意味する。
悪しき者の怒りの愚かさを、自分の剣によって滅びるという、人の側から描いている。前の部分では神の目という視点があった。どちらも10節の「悪しき者がいなくなる」ということを発展させている。
「剣」が最初に置かれ、強調されている。「弓」も「剣」も単数形で、主語が複数形(彼ら)であるのと合わないが、実際の戦いの場面ではなく、詩人の想像の中なので問題はない。
「抜く」は「開く」、「引く」は「行進する」という動詞だが、慣用句として訳される。
「貧しい」と「乏しい」は類義語で、良く平行して使われる。単に貧しいのではなく、悪しき者たちが支配する社会で、正しく生きているために苦しめられている人々。
「道の真っ直ぐな者」は直訳で、口語訳の「直く歩む者」は上手い訳。正しく生きようとしている者達。ここでは「貧しい、乏しい者たち」と平行させられている。
「斬り殺す」は詩篇ではここだけに出てくる語。
「その剣」は単数形だが、「その弓」は複数形。このような変化は詩文では珍しくない。
「貫き」は「入って来る」という動詞。主語が剣であるので意訳している。「心臓」も通常は「心」と訳されるが、ここでは肉体のことと考えている。
義しき者と悪しき者のコントラストを描き、悪しき者の滅びというテーマ(10〜15節)から、正しき者の祝福(18〜19)へと橋渡しをしている。
「わずかなもの」と「豊富さ」を物質的に解釈し、「正しい者が貧しいのは悪しき者が豊かなのに勝る」とする訳が伝統的に多い。が、文脈を考慮すると、「剣」あるいは(財力を含めた)「力」とも考えられる。いわゆる「清貧」を教えているのではない。神を信じる者にとっては数や富の大小は問題ではない。神が支えていてくださることが全てである。
「腕」が「砕かれる」とは骨折ではなく、力の元が砕かれること。「砕かれる」は15節と同じ。
ここでは悪しき者への言及は無く、正しき者たちの受ける祝福に集中している。
「全き者」は「完全である」ことだけでなく、健康であること、全体がそろっていることなど、様々な意味で使われる。犠牲の動物が「傷の無い」状態、人が「潔白である」ことでも使われる。ここでは「正しき者」の意味で用いられている。
「嗣業」は、「(地を)受け継ぐ」とは違う語だが、同じことを表している。旧約の世界では約束の地を受け継ぐことが大変に重要とされている。霊的な意味での「永遠の命」。
「恥じることがない」とは、神に信頼しているのにその信仰が無駄にあるようなことにはならないということ。実際には災いに遭うことは在る。しかし、信仰の故に「滅びる」ことはない。
再び「悪しき者の滅び」に戻る。これら二つのテーマが繰り返し現れる。ここでは悪しき者たちの滅びを「煙」のよって譬え、「永遠」と対照的に描いている。
「悪しき者たち」は、すなわち「主の敵」である。動詞は一回しか出ていないが、両者に共通している。
「雄羊」と訳されている言葉は、「牧場」とも訳す事が出来、「牧場の輝き(青草のこと)」と解釈することもできる。それが煙となって消えることから、牧場が燃えることよりも、生贄の羊が燃やされる方が理解しやすい。
「消え失せる」は「完成する、終わる」という動詞で、ここでは悪しき者たちの滅びを表す意味で使われているので、「消え失せる」とした。
正しき者と悪しき者のコントラストを、実際的な倫理を例にして教えている。
「返す」は「シャローム」の動詞形が使われ、「完成する」が原意。借りた物を返すことで貸し借りの行為が完成するから。悪しき者はすべき行為を完成させないばかりか、返さないことで実際には盗んでいる。
「憐れんで」は「好意や憐れみを示す」こと。決して見下す意味での憐れみではなく、自分より弱い(貧しい)者に対して神の民がすべき当然のこと。「好意的に(貸し)与える」と訳しても良いかもしれない。
「与える」は貸し借りではないが、貸すことも含んでいても良い。
「彼」は神を指すと考えるのが自然である。正しい(あるいは悪い)から以上に、神に祝福される(呪われる)ことがその人の最期を決定する。
「地を受け継ぐ」と「断ち滅ぼされる」は9節に出てきたのと(順番は逆だが)同じ言葉が使われている。
神による支えという17節に出てきたことをさらに発展させている。正しい者も倒れることがあるが、それは神による裁き(滅び)ではなく、倒れた時でも神の支えがあって、完全には倒れない。
「人」は、ここでは正しき者として使われている。神に信頼する者の歩みを神は確かなものとして下さる。神の御旨に逆らう生き方をしているなら、その歩みは不確かなものとなる。
「堅くする」とは土台の上にしっかりと建っているイメージ。人間が自分の人生の土台を築くことはできない。キリストを土台とするとき、神がその人生を確かにしてくださる。
「彼は喜ばれる」の主語は神であることは明らか。その前後の「彼」は「人」。
「打ち捨てられる」は「捨てる、放り出す」という動詞。倒れることはあっても、神に捨てられるのではない。実際、悩みの中にいる詩人が神に捨てられたかのように感じることがある。しかし、神は決して捨てられることはない。
「支える」は17節にも使われている言葉。こちらでは「手」を支えている。足が滑って転んでも、手を支えてもらっているので、全身が倒れることはなく、起こしてもらえる。
詩人の個人的経験という形で、正しい者への神の守り(支え)を表している。
「年をとった」は必ずしも老齢を意味するとは限らない。年を重ねて「若者」ではなくなったこと。この言葉からダビデの(列王上1章のような)晩年の作と考える必要は無い。
「神は(正しい者を)捨てない」という主題が28節、37節にも繰り返されている。「支える」ことの消極的側面。
「子孫」は植物ならば種と訳される。単数だが、ここでは特定の一人の子孫を指すのではなく、子孫全体を指し、そのうちの一人でも「パンを乞う」ことにならない、ということ。
「憐れみ深く」は21節と同じ言葉。「貸し」は21節最初の「借りる」の使役形なので「貸す」。これも「与える」の類義語と考えて良い。
「祝福に至る」は奇異な印象を受けるかも知れない。「彼の子孫は祝福に及ぶ」(新共同訳)のほうが自然だが、前置詞は逆になっている。
主に正しい者の祝福を述べている。
「悪から離れて、善を行え」は箴言などでも見られる、普遍的な倫理。しかし、単なる倫理ではなく、神の視点と結びついている(28節)。
「永遠まで住め」は実際的には「子々孫々」という意味だろう。「善を行う」と「住む」とが結びつき難いが、「(約束の)地」に住む意味であることと考えられ、正しい生き方をする者こそ、神の祝福のうちに約束に地に住み続けることができる、と理解できる。ここでも旧約の民にとっての「約束の地」はクリスチャンにとっての「天国+天国の先取りとしての地上における恵みの生活」と考えられる。
「公義」は「裁き」という名詞で、裁きによって明らかにされる正しさ、という意味で使われているので、「公義」と訳す。
「彼(神)の慈しみに生きる者」は「ヘセド」(恵み、慈しみ、親切)という言葉から来ていて、「聖徒、敬虔な者」と訳されることがある。「聖さ」というよりも、神の慈しみの愛によって生かされていることを自覚し、他者に対しても慈しみ深く、また神に対しては感謝をもって仕える、すなわち「敬虔な者」ということ。そのような者を神が見捨てることはない。
「悪しき者たちの子孫」でも「悪しき者たち」が複数形なのに対し「子孫」は単数形なので、集合名詞的に理解する。
「地を受け継ぐ」は何度も出てきている。「住む」は27節のと同じ動詞。「そこに」は直訳では「その上に」。「何時までも」は「永遠に」とは違う語だが、平行して用いられることが多く、同じ意味である。
<読むな>この部分だけ3節であるのと、「サメク」の次の「アイン」が欠けていることから、この部分は二つに分かれていたのではと推測される。その場合、28節途中の「永遠」から「アイン」の部が始まると考えられるが、解釈がやや難しくなる。「アイン」で始めるために前置詞を消さなければならなくなるから。だとすると、この詩篇がアルファベット詩であることを理解できなかった者が写本したことになる。<読まないほうが良かったでしょ>
正しい者の生き方を述べている。1篇と共通するものがある。
「知恵」は箴言でも良く使われる言葉。「公義」は28節に同じ。「口ずさみ」は1:2で登場し、2:1では「企む」(新改訳は「呟く」)と訳されている。また口にだされる言葉だけではなく、「彼の心」にも神に知恵(教え=トーラー)がある。「ある」は、動詞がないため補っている。
「神の教え」を持っているとき、歩みも滑らなくなる。信仰と知識とが生活に及んでいる。
再び、悪しき者の姿と、正しき者への守り、というテーマになる。後半の4回の「彼」は、文脈から誰を指すかが判断できる。
「窺い」は「見る」という動詞だが、「じっと見る、見張る、まちぶせする」という意味で使われる。ここでも悪意を感じさせる見方である。
「死なせる」は「死ぬ」の使役形なので。「殺す」(口語)と同じ事。ただ、直接的に手を下さなくても間接的に、あるいは他者を用いて死に至らせる、ということも含むのかもしれない。
神は正しい者を「捨て置かない」だけでなく、神の裁きの座において「罪に定めない」。「正しき者」が罪に定められないのは、彼に全く罪が無いからではなく、神が(恵みによって)そうされるから。
「待ち望む」ということは、未来における神の御業を信じる信頼である。
「主を待ち望む」ことは9節にも取り上げられている。神への信頼は待ち望むという忍耐を含む態度に表れ、また神に信頼する故に神の道を歩み続ける生き方に繋がっている。
「高くあげる」は、悪人たちの手から救い出し、虐げられて低められていた者の名誉を回復してくださること。
「地を継ぐ」と「断ち滅ぼされる」は何回も出てきている。
「あなたは見る」は目的語を省略しているが、何を指すかは自明。
再び悪しき者の滅びについて述べる。
前節の「あなたは見る」(未完了)に対し、「私は見た」(完了)と今起きている事を述べている。現実(永遠の視点を抜きにした地上の、しかも短期的な状況)には悪しき者が栄えることがある。
「横暴」は相手に恐怖を抱かせる態度。
「生い茂る野生の木」の「木」は原文には無く、補っている。直訳は「繁茂する(あるいは、贅沢な)野生」。口語訳の「レバノン」はギリシャ語訳を参考にしているため。
「彼が通り過ぎて」が理解し難いと考えて、「私が」と主語を替えている訳がある。誰が主語であろうと、「過ぎ去ってみると」ということ。悪人の栄えは、神の目から見れば一時である。
前節で、悪しき者を見た(捜した)のに対し、正しき者を見る。ここも正しき者と悪しき者のコントラストを描いている。
「全き者」は18節と同じこと。「正しい者」は「真っ直ぐ」という言葉。平行関係で用いられ、類義語として、同じ人のことを述べている。「その人」のこと。
「平和」はシャローム、満ち足りた状態。
「罪を犯す者たち」は37篇ではここだけに出てくる。罪、すなわち神への反逆を犯すこと。
「後には」は37節と同じ表現を使い、両者を比較している。
全体の結論である。悪しき者と正しき者の対比は、重点は悪しき者の滅びよりも、正しき者の救いであり、それが詩人の祈りの中心である。
「救いは、主から」は動詞が省略されている。「来る」、あるいは「出る」を補って理解する。「とりで」も「主は、である」が省略されている。省略によって簡潔な、力強い宣言となる。
「助け、逃れさせ」、「逃れさせ、救われる」と類義語を繰り返して神の救いが必ず成されることを示している。二回の「逃れさせ」は省略の逆で、全く同じ言葉を繰り返している。「逃れさせる」は救うの類義語の一つ。
「主を避け所とする」こと、すなわち神への信頼(信仰)こそ、神の救いの源泉である。
アルファベット詩であるため、はっきりした構造は見いだしにくく、いくつかの同じテーマを繰り返している。
1〜9 怒るのではなく神に信頼せよ(主題の提示)
10〜38 悪しき者の滅び、正しき者の祝福と救い
39〜40 主に信頼して待ち望む(結論)
悩みの中にいると救いを見失いやすい。迫害や困難という「現実」だけに目を向けるときに信仰者も世の怒りや罪に引きずられてしまう。だが、正しき者(救われた者)を神が守り祝福してくださる、という原則は、永遠の世界まで視野に入れなければ理解できない。その点で、キリスト教信仰は復活と再臨を抜きにすれば単なる倫理か理想論になってしまう。救いの完成を成してくださる神に信頼し、待ち望む時に、天国の先取りが与えられる。いかなる時にも主を避け所としよう。