「悔い改めの祈り」
苦難の中で詩人は自分の罪に気づいたために、神への恐れまで苦しみに加わった。罪は神との関係を破壊する。それを放って置いては解決がない。祈りは悔い改めに私たちを導く。
「覚えるために」は、「記念する、記憶する、覚えている」という意味だが、使役形で使われていて、「思い出させる、述べる」という意味から「誉め称える」とも訳される。
<読まないでください>「責めないでください」の否定詞は通常動詞の前におかれるが、ここでは「あなたの怒りで」の前に置かれている。後半は否定詞が無いが、後半の最初に接続詞「そして」があるので、「ない」は両方の行に及んでいるということが分かる。<面白くなかったでしょ>
「怒り」と「憤り」は類義語でほとんど同じ意味で使われる。「憤り」と訳されている言葉は「熱い」という意味が語源。神の怒りは、特に人の罪に対して。
「責める」は「論争する、採決する、抗議する」など、裁判の場で使われることもある言葉。罪に定めるために責めている。
「懲らしめ」は「諭す、矯正する」とも訳され、教育的な意味も持つが、ここでは刑罰的な意味で使われている。
詩人は、自分の罪の重みから、神に責められているように感じている。
「突き入り」と「下ってきた」は同じ動詞。ただ、前者は受動態で使われ、「自らが下る」ということから「突き入る」、「突き刺さる」と訳される。上から、すなわち神様から苦難がやってくると述べている。
神の「手が」が下るとは、神によって攻撃されること。
詩人の苦難は、自分の罪に対して、神が怒り、罰を与えていると感じることで増し加わっている。
「憤慨」や「無傷」は意味のとりにくいところだが、平行法によって理解することができる。「無傷」は「完全である」という動詞と関係している名詞で、「健やか」(シャローム)と平行していることから、問題が何もない、無傷の、完全な状態を指す。「あなたの憤慨」は「私の罪」と平行しており、「私の罪」によって引き起こることとして「神の怒り」という意味だと分かる。「憤慨」の動詞形は「ひどく怒る、呪う」という意味なので、「神の呪い」とすることも可能だが、1節との関係で、「怒り」として理解するほうが良い。
<専門的な話>この節の平行法は非常にはっきりしている。両行が「無い」という同じ言葉で始まり、次が「無傷」と「健やか」という類義語、三つ目の語は前置詞+名詞+一人称単数の所有代名詞(「私の」)となっていて、「肉」と「骨」は同類ペアになっている。四語目も全く同じ語。最後が、名詞+所有人称代名詞なのだが、ここで今までと違い、「怒り」と「罪」、「あなたの」と「私の」とコントラストになっている。したがって、最後の一語によって主題が「神の怒り」から「私の罪」に転換していることが明らかになる。<こんな話は他の本には書いていない>
この節で、1〜2節の「神の怒り」から「私の罪」に焦点が移っていく。「神の怒り」と思っていたことが、本当は自分の「罪」の故であることが明らかになっていく。
「不義」は罪を表す単語の一つ。罪の結果としての「罰」を意味することもある。
「私の頭を越え」とは、頭上を通り過ぎた、ということではなく、自分の背よりも高くなった様ではないだろうか。高く積もって重くなったので、後半の言葉に続く。
「私の前で」は前節に出てくる語と同じ。次節にも用いられている。ここでは(1)自分の面前で、つまり、罪を自覚していること、(2)自分が見て、すなわち、自分にとって、の可能性がある。後者の方が良いと思う。
この節では、詩人にとって重いのは、自分の上の神の手(2節)ではなく、自分の罪。
「悪臭を放ち、腐りました」は二つの動詞を接続詞無しに並列させており、連続した動作ではなく、二つで一組のことと理解することが出来る。
「傷」は複数形。
「私の愚かさの前で」は「愚かさの故に」と訳すほうが分かり易いが、ここで「愚かさ」が愚かな自分自身と捉えると、(罪の結果としての)自分の傷が、自覚している中で腐っていく、すなわち悪化していく様を、比喩的に語っているもと考えられる。あるいは罪自身を「愚かさ」と考えているのかもしれない。後半は動詞がないが、前半と同じと考える。
「身をかがめてうなだれ」は二つの動詞が5節のように並列している。「ひどく」は二つ目の後にあるので「身をかがめて、ひどくうなだれ」とも訳せるが、動作を分けないで一つのように訳した。二つの似たような、あるいは同じ言葉を並べることで強調的な意味を産み出すのは、ヘブル語ではよくある表現であり、さらに「ひどく、非常に」という言葉も加え、詩人の悲しみや苦しみを強調的に描いている。「身をかがめ」は「折れる、折る」という動詞の受動態なので、「自分を折る」ことから。「うなだれ」は普通、「平伏す、お辞儀をする、礼拝する」と訳されるが、ここでは「身をかがめ」と同様の動作と考えられる。
「嘆きながら」は動詞の分詞形で、状態を示し、そのような動作をしながら、ということを表している。罪の故の苦悩を表す。
「歩く」は強意形だが、詩文で通常の意味と同じに用いられている。実際的に歩くというよりも、象徴的な意味で、そのような人生を送っていること。
「焼き尽くされ」は直訳すると「焼かれている状態で一杯になる」。「焼く」の受動態の分詞形と「満ちる、満たす」。
<読まない方が良いかも>「腰」が焼き付くされるとは、(1)力の元であり、全身の代表としての「腰」が焼かれてしまった状態、(2)「腰」という言葉の同音異義語に「愚かさ」という語があり、5のように罪との関連での「愚かさ」(違う言葉だが)が「燃えて、一杯になった」ことを意味すると考えることもできる、(3)さらに同音異義語で「信頼」の意味もあり、この場合、「燃えるような信頼が一杯になっているが」と次の行に逆接的に繋がる。(3)は前後の文脈から考えにくい。恐らく、肉体的な苦しみとして「腰」が火傷のような状態であることを描写しつつ、「愚かさ」の同音異義語を使うことで5節のようなことを含ませているのでは無いだろうか。<よけい分からなくなったでしょう>
後半は3節冒頭と全く同じだが、こちらには神の怒りに関する言及がない。したがって、7節の時点では、問題は神に罰せられているような思いではなく、自分の罪が原因となっている。
前半は6節の前半と似た形式で、二つの動詞プラス副詞句「ひどく」となっている。ただ、動詞が接続詞で結ばれているので、二つの動作として訳した。「しびれて」は「感覚を失った」ということ。あるいは感覚を失って「たるんだ」状態として、口語訳は「衰えはて」としている。「うち砕かれ」は肉体的状態であるとともに、心の状態でもある。
「呻き」と「うなり(声)」とは似たような意味の語。後者は動物のうなり声や吼える声、そこから人間が苦しみによって泣き叫ぶ姿を現す。
6節の形の上では似ているが、苦しみはさらに増している。どうすることも出来ない状態で、詩人は祈り(9節)に導かれる。
「主よ」は1節とは違う語。「ヤハウェ」(1)と「アドナイ」(9)。訳すときはどちらも「主」。
「あります」は付け加え。前半は動詞がないため、補った。「あなたの前にある」、すなわち神に「知られ」ていること。
「願い」と「嘆き」は共に単数形で、前者は男性名詞、後者は女性名詞。別々のことではなく、祈りに置いて表裏一体の一つのこと。
ここから詩人は神の前に包み隠さない祈りを語る。
「うち震え」は「行き来する」という動詞だが、特殊な形で使われている。
「離れ」はもっと厳しく「見捨てた」とも訳せる。
「力」と「目の光り」はどちらも人の生命力を指している。まったく弱くなってしまった状態。
「打ち傷」は物理的な傷だけでなく、疫病(災いと考えられていた)の被害、またその痕を意味することもある。どのような傷にせよ、外面的な傷の故でなく、それが神からの災いであると考えて、「友たち」が離れていってしまう。
「離れて立ち」は直訳では「その前に立ち」だが、3〜5節の「前に」が直前、面前であるのに対し、こちらは少し距離のある「前」。例えば、山の前に立つ、など。
「近かった」と「遠く離れて」がコントラストとなっている。また、前半の「離れて立ち」がさらに進んで「遠く離れて立ち」になっている。「近かった者」は親族と理解することも出来る。
この節では仲間だった人たちから見捨てられている状況を述べている。
「魂」は様々な意味で使われる。ここでは「命」と同じ意味。
「罠を儲け」は「打つ」という動詞だが、特に鳥などを狙うことを意味し、そのために罠を儲けることの意味で使われる。ここでは抽象的な意味で用いられ、具体的には次の行で明らかにされる。
「私の災い」は直訳では「私の悪」だが、罪のことではなく、「私」に及ぶ悪いこと。
「破滅」は地面の割れ目を指す言葉で、そこに落ち込むことから「破滅」と訳される。
「口にする」は詩篇1:2で「口ずさみ」と訳されている言葉。
ここの「敵たち」が誰かは分からない。もし11節の、かつては親しかった者たちだとすると、友人だった者たちに見捨てられただけでなく、裏切られ、さらに滅ぼそうとされている。どちらにしても、詩人の置かれた状況は(自分の罪の問題を除いて)キリストの受難の時に似ている。信仰者の苦難は、時にキリストの十字架を映し出す場合がある。
後半の「人のようです」は原文にはないが、接続詞「また」が前行からの反復を意味し、平行関係から考えて、補って理解する。
「弁明」は「議論」とも訳されるが、ここでは何か抽象的な問題に関する議論ではなく、人々が偽りをもって非難していることに関する弁明。
13〜14節は裁判の場でのキリストを思わせる。
「まことに」を否定的強調と理解して「しかし」とすることも可。「あなたに(を)」も強調的。これは、前節までで敵対者の批判に詩人自身は答えなかったが、神が応えてくださる、ということ。
「主よ」は、前半は「ヤハウェ」、後半の「主」は「アドナイ」。もちろん別々の対象ではない。「あなた」も含めると、4回も言及している。
この節で、初めて神への信頼が述べられている。自分で弁明し、自己弁護している間は信仰に結びつかない。行き詰まったときこそ信仰が生かされるとき。
「喜ばないようにしてください」は命令や祈願ではないが、「しないように、さもないと」という言葉を受けて、このように訳す。後半は「しないように」が原文には無いが、付け加えた。
「勝ち誇る」は「自分を大きくする」ということ。
信仰者があざ笑われるのは、その信仰の対象である神にとっも侮辱。そこに旧約の詩人は救いの根拠を見いだした。
「躓くばかりです」は直訳すると「躓きのために立っています」。今すぐにも倒れそうな状態。
この節は前節の願いの前提となっている。初めの「実に」を理由を表すと考えて「なぜなら」としても良いかも知れない。
「不義」と「罪」はそれぞれ4節と3節に使われている。
「恐れている」は不安や心配を表す言葉。「(不義を)言い表す」と関連していないように思うが、再び神の怒りを感じる(1〜4節)状態を恐れているのだろう。罪の問題が解決しなければ本当の解放はない。が、告白することに恐れを感じることも確か。キリストの十字架の贖いを信じることによってのみ、悔い改めが可能となる。救いの無い悔い改めは、後悔となり、恐れを増す。
「活発で」は「生きている」という形容詞。活気に満ちている状態。前節の詩人の状態(倒れそう)と対照的。
「偽って」は副詞ではなく、名詞「いつわり」なので訳しにくい。「ゆえなく」と訳すものもある。
「強い」と「多い」が平行している。詩人の弱さ、孤独さと逆である。
「報います」は「完成する」(シャロームと関連)が直訳。借りた者を返す場合、相手の行為に報いる場合にも使われる。
信仰者は悪に対して善を行うことをキリストから求められている。それゆえ、善に対し悪を報いる者はそのようなクリスチャンに敵対する。
「離れる」は11節と同じ動詞。「見捨てる」は、同じ動詞は使われていないが、11節の友に裏切られた状態を、神に当てはめて語っている。21節と22節が16節の祈りの本論。
「急いでください」は、初めての命令形。これまでは未完了形プラス否定詞で命令形の意味に理解していた。
前節が消極的な願いで、この節が積極的な願い。
1〜3 神の怒り
4〜5 罪による苦しみ
6〜10 肉体の衰え
11〜12 友の裏切り
13〜15 神に託す
16〜20 祈り(罪の告白)
21〜22 救いの求め
神を恐れるような罪があるとき、それを棚上げにしては問題の解決は無い。神に信頼して、悔い改め、救いを祈り求めるとき、神はそこに介入してくださる。信仰者の苦しみは十字架の一端を指し示すことがある。ただ、キリストは罪が無いのに苦しみを受けて下さった。神に「捨てられる」苦しみを味わってくださった。そこに新約の救いの土台がある。