「苦難のただ中で」
この詩篇は何らかの苦難の中で詠まれた。死に直面しているようにも感じられるが、それが病気のようなものかは特定できない。また、その苦難に乗じて非難をしようと敵が狙っている。そのような絶望的な状況の中での祈り。通常の「嘆きの歌」とは異なる。
「エドトン」は人名と考えられるが、特定するのは難しい。歴代誌の中に14回出てくるが、一番可能性が高いのは、ダビデがレビ人たちの中から音楽の奉仕をするために任命したヘマン(歴代上15:17)と一緒に楽器を演奏したのがエドトン(同16:41)。後に彼の子孫がエドトン族と呼ばれる。子孫や親族の中に同名の人がいる可能性も十分ある。したがって、「指揮者エドトン」、「指揮者と、エドトン」かもしれない。また「エドトンにちなんで、のために」と訳すこともできる。
「私は言った」は完了形で、その後は未完了形の動詞が続くので、「言った」以下が「私」の言葉であることが分かる。各日本語訳はカッコをつけている
「(私の道を)守ろう」と「(口輪を)はめよう」は全く同じ動詞で、「守る、保つ」という意味。
「舌における罪」は言葉による罪。敵を批判する言葉はいつのまにか罪につながることがある。
「口輪をはめよう」は、はめていないのを、これからはめる、という事よりも、今はめている物をそのままにしておくこと。
敵対する罪人が面前にいる時に、言葉による罪を犯して、自分も神に逆らうものとならないよう、沈黙することを詩人は決意している。人間的にはそれが唯一の道でも、神の目にはそうではない。そのことに気がつかされるのは、この詩篇が進んでいった時。
「沈黙」に関わる言葉が名詞1回と動詞2回用いられている。前節では間接的に「沈黙する」ことを述べ、この節では直接的に述べている。喋らないこと、もしくは喋ることが出来ないこと。
短い(2語)表現を重ねることで、他に何もせずひたすら沈黙したことように感じさせる。
「良いことよりも」は直訳では「良いことから」。良い言葉すら語らない、あるいは良いことをするよりも黙ることを選ぶ、ということで、この沈黙が無意味なものであることを示す。
「すると」と、接続詞を用いて、この部分が結果であることを表している。
「痛み」は肉体的よりも心の痛みだろう。口語訳は「悩み」と訳している。
前節で決意したように、詩人はひたすら沈黙を守り続けた。語るべき時すらも黙っていた。そかし、それは新たな悩みを巻き起こした。すなわち沈黙は問題の解決では無かった。
「熱くなり」から「火が燃える」と状態が悪化している。この「熱さ」は具体的には前節の痛み(悩み)のこと。
「つぶやき」はここと詩篇5:1だけに用いられ、「ぶつぶつ言う」という意味だと推定されている。「呟くこと」あるいは「(呟くようにして)思いにふける」と理解される。心の中の悩みが、押し殺していたのが思いになり、つぶやきになり、最後には語らざるを得なくなる。
「舌をもって語る」は具体的に口で語ること。
詩人は沈黙を守ったが、その副作用として痛みが抑えきれなくなって、ついに語り出す。
「知らせて」と「知ります」は同じ動詞だが、前者は使役形、後者は自分への命令形である。
「私の終わり」は死を意味し、「日々の測り」も「生涯」を図ることから寿命を予測している。
「むなしい」も命のはかなさを意味し、死と関連している。
最初に口から出たのは自分の死を考える言葉だった。しかし、これは単に死を願い求めているのではなく、自分の人生のはかなさを考えている。
「見よ」は動詞の命令形ではなく、注意を促す間投詞。「さあ」などと訳される。
「日々」は日の複数形だが、人生、一生などを意味する場合もある。ここでは前節で「私の日々の測り」と言っていることに呼応している。自分の一生を図ると、それはどれほどの長さか。それは「手幅」だと言っている。「手幅」は「人生」を表すにはあまりに小さな単位。
「一生」と訳されている言葉はしばしば「世界」を意味することがある。それが神様の前では「無い」と言っている。「手幅」よりもさらに小さく、人生のはかなさが一行目よりさらに誇張されている。
「堅く立っていても」は「立つ、まっすぐに立つ」という動詞。口語訳は、堅く立つ、すなわち人生の盛んな時、と理解している。年齢的なことよりも自分ではしっかりと立っているとき。
「息にすぎません」、「すぎません」は文章を整えるために付け加えている。「息」は「空しいもの、儚いもの」を表すことがあり、アダムの次男の名前でもある。
「セラ」の正確な意味は不明。ここでは「暫く考える」と良いかも知れない。前二行では前節に続いて「私の」人生のはかなさを述べていた。ところが三行目で、主語が「人は全て」と一般化している。これは詩的表現であり、平行法による言い換えでもあった。ところが、詩人はこのことに思いを寄せる。人生の儚さを味わっているのは、自分だけではなく、実は全ての人のことなのでは、と。
「影」は「かたち」と訳される言葉で、人が神の「かたち」に作られた、というときに使われる。また、動物の「かたち」に似せて作ったもの、偶像なども意味する。ここでは人と同じかたちの「影」の意味で使われている。「影のうち」とは人の人生が影、あるいは幻のようなものであると捉えている。
「歩き回る」は「歩く」という動詞の再帰形で、行ったり来たりすること。
「空しいこと」は前節の「息」と同じ語。「騒ぐ」は「(動物が)吼える」、「(海が)轟く」など、意味の無い騒ぎを意味する。群衆が騒ぐ場合にも使う。人々が騒いでいるが、その内容は息のように空しいこと。
「積み上げる」は、麦などの収穫の時、畑で一旦それを積み上げ、それからそれを「集めて」、運び、蓄える。
前節の最後の行を発展させて、自分のことというよりも一般的に「人」について述べている。全ての人が空しい人生を歩んでいると。
「しかし、今」は前節までの流れを変える表現。人々が空しい生き方をしていることに対し、詩人は自分の希望が主にあることに気がつく。
「罪」は反逆の罪。詩人は、自分が神様に逆らうようにならないことを願った。苦難の中でも主に望みを置き、神に恨みを持つような、反抗的な生き方にならないように。
「愚か者の嘲り」は、神を知らない愚かな者が、詩人を、その受けている苦しみのために嘲ることか、あるいは、人々が詩人のことを「愚か者」と嘲ることか、どちらにもとれる。
「私の上に置かないで」は直訳では「私に置かないで」。人々の嘲りを、神様がしていると言っているのではなく、神様が解決してくださるように祈っている。「救い出す」ことと「置かない」ことは平行している。
苦しみの状況が変わらないとしても、主に望みを置いた詩人は、神に逆らう罪からの救いと、苦しみを増し加える誹りからの救いを願っている。
「私は黙り」は2節の最初とと同じ言葉。「口を開かない」は新しい表現だが意味は同じ。一見、最初の態度に戻ったように見えるが。
「あなたが、なさったからです」の「あなた」は強調されている。「なさった」(した)の目的語が無いので、「それを」や「そう」を補って読むと分かり易い。
詩人が黙っているのは、それは神がなさったことだ理解している。自分の力で沈黙することで問題を解決しようとするのは無理だった。しかし、ここでは神様を信頼し、委ねきったあとなので、口を開く必要が無くなっている。
「あなたの災い」と、詩人は自分が受けている苦しみが神からのものであると感じている。しかし、それを取り除くことが出来るのはやはり主だけであることも信じている。
「あなたの敵意の手」は、直訳では「あなたの手の敵意」。神が敵意をもって手を下している、と一行目の考えが強まっている。
「私が滅んでしまいます」で、「私」は強調されている。他の者たち、神に逆らう者たちが滅びるのではなく、神に望みを置いている自分が滅びると、訴えている。「滅んでしまいます」は完了形なので、もうほとんど滅びかかっている、というニュアンスかも知れない。
人との関係が解決できた(9節)とき、残るは詩人自身が受けていた苦しみが大きくのし掛かってくる。その苦難を見つめたとき、それが神から来ている、神の敵意による苦しみだと詩人は考えてしまった。
「不義を責めて」は「不義について議論する」、神が人の罪について議論するなら、人間には弁解の余地はなく、責められるだけになる。「責めて」の前に前置詞があり、それを時間・状況を表すと考えて、「責めるとき」と理解することも出来るが、ここでは意味を弱めている。
「懲らします」は、教育的な意味での訓練よりも、懲罰的な意味合いが強い。
「しみ」は衣服に水がかかって、濡れた状態で、乾燥している地域では、まもなく乾いて見えなくなってしまう。簡単に消えてしまうもの。
「彼の願うもの」は直訳すると「彼により願われるもの」と受動態分詞を用いているが、意味は同じ事。この「願い」が具体的に何であるかは書いていない。詩人にとっては今の苦難が取り除かれるという希望(10節)。
罪の問題を考えた時に、神に救いを求めることも出来ない、願いを持つこともできないことに気がつく。神の前での人間の絶望を詩人は味わう。そのとき、人間の儚さを思い、「全ての人は息」と述べたとき、それが5節の終わりと同じ表現であるため、もう一度神の前に静まる。
最初の三行は平行しており、同じことを違った表現で述べている。「祈り」は「叫び」であり、また「涙」でもある。その祈りに神が「聞いて」「耳を傾け」「黙らない」ことを求めている。
「寄留者」に関しての律法は、イスラエルの人々の中にすんでいる寄留者を保護するように命じている。そのように命じる神ご自身が、神に身を寄せる者を保護してくださるお方である証拠である。詩人は自分が「寄留者」であることを認めて、神に助けを求めている。
「先祖たち」はアブラハムから出エジプトまでの先祖がそうであるが、全ての時代の信仰者が寄留者であるとヘブル書は教えている。
「私をにらみつけず」は直訳では「私から(離れて)見つめてください」。神が怒りの目で見るならば、人は滅びるばかりである。
「微笑ませてください」は、祈願や願望を意味する表現で、「私は微笑みましょう」、「私が微笑みますように」というのが直訳。
「行って、いなくなる」は死ぬことを婉曲的に述べている。この節だけを読むと、悲惨な祈りに思えるが、これは前節の寄留者として、主人である神の憐れみにすがっての願いであり、信頼がそこにある。死にそうな苦難の中で、神に助けを求めている。
1〜3節 沈黙では解決できない
4〜6節 神の前での絶望
7〜9節 信頼が生まれる
10〜13節 必死の願い求め
他の嘆きの詩篇のように賛美や賛美への誓いで終わっていない。詩人はなお苦難の中にいる。しかし、それで彼の神への信頼が無くなったのではない。例え、解決が見いだされなくても、状況は変わらなくても神への強い信頼が生まれている。何度も絶望に引き戻されそうになる。しかし、御言葉を黙想し、憐れみの神に目を向けて、何度でも立ち上がろう。「私の望みはあなたにあります」と。