「救いを根拠とした祈り」
この詩篇は前半(1〜10)と後半(11〜17)で内容が大きく異なる。私たちの生活も感謝の時と苦難の時がある。その二つをどのように結びつけるかをこの詩篇は教えている。
「待ちに待ちました」は、直訳すると「待つことを待ちました」で、同じ動詞を二つ重ねて意味を強調している。神を待つ、すなわち神に祈って答えを待ち望むことに、詩人は必死であった。口語訳の「耐え忍んで」は意訳だが雰囲気を表している。
「主よ」は呼び掛けと理解しているが、目的語として「主を」とすることも可能。特に、次の行で「彼は」と三人称にしているので、文法的には「主を」としたいところ。だが、詩文では人称の変化は当たり前のことなので、
「主よ」のほうが平坦にならなくて良いと思う。
「すると」は詩文では不必要な接続詞を、しかも行の最初に用いているので、強調的に訳した。三行目も同じ接続詞で始まっているが、そちらは日本語として冗長なるので省いた。
「身を傾ける」は声を聞くための動作。神を人間的な動作で表現している。
「叫び」は、特に助けを求めるような叫び。
詩人は、必死で助けを祈り求め、神が聞いてくださった、という体験をした。そのことへの感謝であり、その体験に基づく信仰告白が続く。
<ここは読まないで>「どよめき」はいくつかの訳では「滅び」と訳されるが、他にはそのような意味では使われていないので、確かではない。「穴」が、普通は死の世界を意味し、それと合わせるために「滅び」と考えられているが、「穴」は必ずしも「死」でなくても良く、一般的な意味でも使うことが出来る。また、井戸や水溜のような「穴」も指すことがあり、「どよめき」も水の音と考えられるので、深く水の蓄えられた穴、かもしれない。したがって、ここは「どよめき」すなわち混乱の穴、という詩的描写と考えられる。「泥沼」も死の世界というより、混沌とした世界と考えることができ、詩人の置かれていた状況が、少なくとも自分の力では這い出ることの出来ないような困難であったことは確かである。<読むな、と言ったのに>
「足を岩の上に置く」と「歩みを確かに」は同じことの異なる表現。歩くことも立つことも出来なかった状況から、自分の足で歩める状況に救い出された。私たちも、自分の足で立っていると思うことがあるが、実は神が、立てる場所に置いてくださっただけである。
詩人は神が自力では出られない困難から、祈りに応えて救い出してくださったことを思い起こした。自分が神によって救われ、守られていることを自覚するとき、神を賛美する生き方に導かれる。
「置かれます」は、詩人は自分が賛美できるのは、神の故であることを自覚しているということ。それは、神の方が賛美を必要としているのではない。賛美のために作られた天使の群れがあり、また世界の美しさが創造主の素晴らしさを表しているのだから。むしろ、神を賛美するのは人間にとって最も相応しい行いだから、それが出来るようにしていただいたと言うこと。
「新しい歌」と「我らの神への賛美」は二つで一つ。「新しい歌」が生まれるのは、神が日々新しい救いの恵みを与えて下さるから。
「見」るのは、「賛美」であると考えることもできる。「賛美を見る」のは変な気がするが、賛美をしている姿を見る、と理解すればよい。あるいは、2節で述べられた、奇跡的な救いのことを述べていると考えるほうが、もっと自然である。
「おそれ」は恐怖の意味と畏怖の意味の両方であろう。最初は「恐れ」るかもしれないが、分かってくると「畏れ」となってくる。「恐れ」だけなら、次の「信頼」に繋がらない。
神の救いの目的は、救われた者自身が賛美の生活に変えられることで、人間としての正しい姿に整えられていくため、また、救いへの感謝の賛美を通して、多くの人が神に立ち帰るため。詩人は個人的な感謝の賛美から、会衆への訴えと導かれる。
「幸いなるかな」は1:1と同じ。神を信頼する者こそ、幸いである。「その人」は主に詩文で使われる単語で、強調的に書かれている。
「顔を向ける」とは信頼や礼拝の行為でもあり、そちらに心が向かい、慕い求めている姿でもある。
「高ぶる者たち」を偶像と考える者もいるが、それも含む、神に対して高ぶっている者全般。新共同訳は「ラハブ」と固有名詞にしているが、原文は複数形であって、あまり可能性は無い。
神に信頼する生き方こそ、幸いな人生だと、詩人は自分の経験から語っている。神に信頼しない時、人間は、高慢か偽りによって間違った道を進んでしまう。そこで、神への信頼を訴えるために、神の素晴らしさについて次節で語る。
「(神が)なされたこと」とは、「奇しい業」と「あなたの御思い」で、神は「思う」だけでなく、それを実行される。「奇しい」は人間の能力や理解を超えていること。神のなさる救いは、人の理解を遙かに越えている。
「宣べ伝え、また語ります」は願望を示す表現なので、「宣べ伝え、また語ろう」としても良い。語る内容は、次の行。
「それら」は二行目の「業」と「思い」。「多すぎて」は1行目とは違う語で、数が多くて力強いこと。「数えられません」は直訳すると「数えることよりも(多い)」。あるいは「語り尽くせません」でも良い。
この節は、細かい点では意味が掴みにくい。全体としては神の救いが人間の理解を超えていることを述べている。どのように超えているかは、次の節で述べられてる。
一行目と三行目は同じ事を述べている。神は儀式的な捧げ物を求めておられるのではない。では何を求めているか、は二行目。
「いけにえ」は動物のささげものであり、「ささげもの」は穀物でも動物でも良い。「動物」と「穀物」という分類のことではなく、あらゆる種類のささげものの代表。したがって、いかなる種類のささげもの、ということ。「全焼のいけにえも、罪の贖いのそなえ物」は「いけにえもささげ物」をさらに詳しく述べている。これらは当時の礼拝、すなわち、信仰の行為として中心的なことだった。
「両耳」は複数形では無く、ペアを示す双数形。身体の部分(手や足、目や耳)に使われる。ここの「耳」は、「聞く」すなわち「従う」ことの象徴。申命記15:17で奴隷の耳に穴を空けるのも同じ意味。神は自主的に「仕える」生き方を求めておられる。そなえものを初め、儀式や犠牲は、この従順な生き方の具体化でなければならない。
多くの人は、神は犠牲を求めるお方だと考えていたが、詩人は神の願いは従順であることを知り、それに応答する。
「その時」は、詩人が神の求めが従順であると知ったとき。従って、それに対する応答が、以下の言葉である。
「ご覧下さい、私は来ています」は主人に呼ばれた僕が答える言葉と考えられる。「来ています」は「行きます」でも良い。神の言葉を受けるために来て、それを実行するために出ていく。従順の求めに対して、僕の姿で応答している。
「書物の巻物」が何を指すかは不明。(1)律法の書と考え、それが自分に関する神の御旨として書かれている、と理解し、僕である自分が主人である神に従うのは、律法の言葉に従うこと、と理解する。(2)天にある書で、内容は神の御旨。
<ここは読んでも良い>ヘブル書10:5〜7では、この箇所(6〜8節)をキリスト預言として取り上げている。神の御旨である従順を完全な形で示すため、僕の姿で来られ、従順の究極的な成就として、動物や穀物の捧げ物ではなく、ご自身を犠牲として捧げられた、と理解している。このキリストに関することは全て「書物の巻物」、すなわち律法を代表とする旧約聖書全体に書かれている。ヘブル書ではギリシャ語訳聖書を用いているので、「穴を空ける」というヘブル的表現を、僕としての肉体を持つ、というギリシャ語的表現に変えている。<読まなくても良いです>
「御旨」は「願っていること」。主人が願うことを行うことこそ僕の喜び。「神の支配と神の義さを第一とする」こと。「喜ぶ」は6節と同じ。神の喜ぶことを喜ぶ。そのような心となったとき、神の働きをすることができる。
「御教え」は「律法」と訳される。聖書の中に神の御旨が書かれている。「胸」は「はらわた」や「胃」とも訳され、人間の内部を意味する。「こころ」と訳しても良い。新しい契約では神の言葉は人の心の中に刻みつけられる。
御心を喜び、神の言葉を心に刻みつけ、従う時に、神の栄光を現す存在となる。それが次の節で述べられる。
「大いなる会衆」は、直訳だと「多くの会衆」。イスラエルで集会などのため集った人々。新約では教会の意味で使われるようになる。
「義」は救いとほぼ同じ意味で使われる。神が義を表されるとき、神を信じる者にとって救いのときとなる。
「唇」は双数形なので「両唇」。口を閉じないということ。つまり、良い知らせを告げることを止めない。
詩人は神の恵みを隠さず人々に伝えることで、神の栄光を現す。
「覆いません」はカバーを掛けて隠すこと。「隠しません」は隠して見えなくする。どちらも否定形で用いられているので、隠さずに表す、ということ。1行目では「私の心のただ中」と、自分の心の中に隠しておかないこと。3行目は、会衆に対して隠さないこと。どちらも2行目の「語ります」の消極的側面。
「義」、「真実」、「救い」、「恵み」、「真実」と、神による救いの恵みを様々な言葉で述べている。2行目の真実と3行目の真実は、同じ語源だが、男性形と女性形の違い。
この節から口調が変わって、助けを求める祈りとなる。前節までの救いの告白を過去の事と見て、過去には神を信頼し、賛美したのだから、今の困難から救って下さい、と祈りの根拠と見るか、神を賛美するようになりますから救って下さい、と祈りの結果と見るか、前半と後半の関係は単純ではない。
「あなたです、主よ」と、他ではない、神の助けを求める叫び。
「憐れみ」は「胎」と訳される名詞。母親が胎の中の子を慈しむように、神は憐れんでくださる。「抑えないで」は9節の(唇を)「閉じません」と同じ言葉。
「災い」は「悪」という言葉、外部からの悪いこと。それに対し「不義」は内部から。周りの状況が全ての原因ではなく、自分の罪の問題もあることを知って、詩人の悩みは「取り囲み」「追い迫る」と感じるほどに強くなっていた。
「見ることができません」は(苦しみの為に)「視力を失う」ということではなく、苦難のあまりの多さに、それを数えられない、あるいは直視出来ない、ということだろう。
「私の心もまた、私を見捨てました」は、自分ではどうすることも出来ず、諦めている様子。
詩人の状況は最悪であったが、前節までで述べられた、神の憐れみと救いがあるからこそ、こうして祈ることが出来る。
「喜びとして」は、「愛する、喜ぶ」という動詞で、嫌々ではなく、心から、ということ。口語訳では「みこころならば」と意訳しているが、意味が弱まる。前節の切羽詰まった状況の中で、必死に助けを求めている。
「魂を追い求める」は命を狙っていること。人の命を狙い、人の災いを求める者たちに神の裁きがくだることを求めている。「恥を見る」、「恥じ入る」、「辱められる」は同義語。高慢な者たちが逆に恥を受ける。
詩人の苦しみは、このような敵たちの存在によってますます増大している。詩人の苦難を見て、命を取ろうとやってくるような者たちがいた。
「あはあ、あはあ」は人の不幸を喜びあざ笑う言葉。喜びの意味でも使うが、ここでは悪意ある喜び。日本語の「ざまを見ろ」。
「おののかせて」は土地が荒廃する意味の動詞だが、人間に対しては「恐れる、おののく」などの意味で使われる。
詩人は自分の敵の滅びを願うというより、人の不幸を喜ぶような者たちに神に正しい裁きが下ることを求めている。当時は、苦難の中にいる同胞を助け合うように命じられていたことを考えると、彼らの姿は明らかに神の御心に逆らっている。単なる復讐ではなく、神の義が示されることを願っている。
この節は、前節で、悪しき者たちへの神の取り扱いを述べていたのに対し、神を求める者たちへの神の取り扱いをのべている。
「あなた(神)を尋ね求める」は、神を信頼し、神に助けを求めること。そのような者たちが喜ぶのは、神の救いが表され、神の義が実現されたとき。そのとき、「神によって」、あるいは「神にあって」喜ぶ。
「主は偉大だ」と心から言えるように神の救いが表されることを願っている。
「貧しく、乏しい」は類義語で、ペアで用いられることがある。「しかし私は」と、一見不信仰のようだが、前節で述べた主の救いに関する一般的な真理に対し、自分の置かれている状況を比較して訴えている。
「顧みて」は「考える」という動詞で、神が救いの意図を持って私のことを考えて下さること。
「助け」と「救い」も類義語。神様が自分の救い主であることを述べたとき、「私の神よ」と呼びかけることが出来た。この詩篇では3回目。神との個人的なつながりがあるからこそ、この詩篇は泣き言や呟きでは無くなる。
最後の節は神への逼迫した、切実な祈りで、隠すことなく助けを求めている。
1〜5 神の救いに関する証し
6〜8 従順の証し
9〜10 賛美の誓い
11〜17 救いの求めの祈り
詩人は過去の救いの体験に基づいて、今の悩みからの救いを願い祈った。どんな時でも感謝と賛美が土台にあるとき、揺るぐことはない。そのような信仰の中心にあるのは神への従順である。詩人は自分の体験のみが根拠であったが、私たちは誰よりも従順を貫いたキリストの救いを根拠とすることができる幸いをいただいている。