「裏切りと賛美」
友の裏切りという、賛美の出来ないような状況に置かれたとき、どのようにしたら良いのだろうか。第1巻の最後の詩篇は、ダビデの苦しい生涯における信仰の秘訣を教える。
「幸いなるかな」は40:4にも出てくる。神を信頼することは、弱者への配慮につながっている。信仰と行いとは無関係ではない。しかし、ここは単に「善行」を勧めているのではないことは4節以降で解る。
「弱い者」は「弱い、貧しい」という形容詞。「心を配る」は「見る」という動詞で、「よく見る」ということから「心を配る、心に留める」と訳されるが、多くは「思慮がある、悟る」という意味で使われる。ここでは分詞形「マスキール」で用いられ、32:1などでは表題の中で使われる。
「悩みの日」は直訳すると「悪い日、災いの日」。精神的な「悩み」だけでなく、あらゆる「悪しき」ことを含む。
弱い者を顧みる人が幸いなのは、神がそのようなお方である故に、その人自身も顧みられるから。また、そのような神を信じる者が、神の御心に反することを願うことはできないので、弱い者を顧みるのである。
「主が」が最初に置かれて強調されている。
「守る」は1節とは別の「見る」という動詞で、「(見て)守る」。貧しい者を「見る」者を、同じように主も見られる。
「生かす」は「生きる」という動詞の強意形で使役の意味で使われる。単に生命がある、という意味での「生きる」ではなく、命に溢れていること。命が続くこと、健康な命であること、生き返ること、などの意味でも用いられる。神が私たちの命も人生も与えていて下さる。
「幸いとされる」は、1節の「幸いなるかな」と関連する動詞。元々は「真っ直ぐ進む」という意味で、神が正しい道を導いて下さることが「幸い」。この世的な祝福が「幸い」の本質ではない。
「欲望の中に置く」は、意訳すると「(敵の)思いのままにさせる」。「欲望」は「ネフェシュ」で、「魂」と訳されることが多い。悪しき者の魂は、欲望そのものである。
<ここは読まない>一行目では主語が「主」であって、「彼」は目的語。二行目では「彼」が主語となり、動詞は受動態となることで、一行目と同じく、「主」が行為(幸いにする)を行っていることを暗示させ、同時に「主」を表面に出さないでいる。これによって、三行目で主語が「主」(三人称)から「あなた」(二人称)に切り替わることが出来る。「主」と、神を三人称で呼ぶことと、「あなた」と二人称で呼ぶことは矛盾ではなく、客観的な信仰(主は)と人格的な交わり(あなたは)とが結びついている。<読んでもかまいません>
神様の御心に適った生き方をしている時に、神様からの恵みが豊かに表される。2節では神の守りを三つの側面から述べている。3節では、それ(守り、命)が、より具体的に表される。
神の守りや幸い(2節)を、特に病気との関連で述べる。一行目と二行目は平行関係になっていて、主語が「主」と「あなた」と2節と同じく人称が変化するが、同じ事を述べており、一行目の内容が二行目で深められている。また、「床」と「寝床」は違う語で、前者は「寝椅子」のようなもの、後者はより一般的に用いられる「寝る所」。「病」も違う語だが、意味の上の大きな違いはない。
「支える」は「彼」の全てをで、前節で「生きる」と述べられている状態。生命をつなぎ止める以上に、もっと力強いこと。
「寝床を裏返す」は、ベッドか布団のようなものをひっくり返すこと。すなわち畳むことで、病の床から立ち上がって癒されることを意味する。この詩篇で初めて動詞が完了形になり、ここまでの未完了形の流れが一旦切れて、1〜3節の終わりとなる。
主の守りが病という状況に当てはめられれば、それは病の中での力、また病の中からの癒しを意味する。
「私のことを言えば」は意訳。原文では「私」が強調されている。接続詞がないが「しかし、私は」と同じような意味。1〜3節で、神は御心に従う者を守り癒して下さるはずである。しかし、詩人は自分がそうではないことを述べている。
「私を憐れんでください」は、詩人が憐れみの必要な状態にあることを述べ、また神の憐れみにすがるしか無いことを表している。
「魂」は霊的なことだけに限る言葉ではない。肉体の癒しをも含めることが出来る。「癒す」は3節とは違う語。
「罪を犯した」は、一般的に病の原因が罪であるということを言っているのではない。また、罪に対する罰なのでもない。詩人にとっては「病」の状態を通して、彼の罪を考えざるを得ない事情があった。「魂の癒し」を、魂の病気としての罪からの癒し、と捉えることも不可能ではないが、肉体も心も含めた、その人の人格の全体について述べている。
「悪しきこと」は1節の「悩み」と同じ「悪」。ただし、こちらは男性形。その内容は二行目である。
「名前は滅びる」とは、個人の死だけでなく、子孫が亡くなってしまうこと。永遠の命という理解がまだはっきりしていなかった旧約の時代では、子孫が続くことが永遠の命のような意味で取られられていた。神の祝福は、その人の長生きと、子孫が長く続くこと。ここでは敵が詩人の徹底的な滅びを願っている。
「見るために」は動詞は普通の「見る」。病気という状況と合わせて見て、「見舞う」と理解することができる。「彼」と前節の「彼ら」から変化しているが、特定の誰かを意識するのでは無い。口語訳の「そのひとりが」は好訳。
「偽り」は「空しいこと」で偶像を意味することもある。ここでは、うそを言うとことよりも、空しいこと、心にもないこと、すなわち「見舞いの言葉」を語っていること。
「彼の心は」とは、心の中で、ということ。
「悪意を集め」とは心の中に悪意(敵意)を蓄えていること。「悪」と理解し、詩人についての悪いことを捜し集めて、それを他に人に伝える、と考えることも出来る。具体的な事は8節で語られる。
「出て」は「来る」と反対の動作。「入る」と「出る」でも良い。詩人の所に来て、そこから出ていく。
「語る」内容は8節、また相手は5節の「彼ら」。
「共に」、悪を行うことについて人は一つとなる。
「私に対し」には「逆らって、敵対して」というニュアンスもある。
「考える」は事実を述べるのではなく、無いことも含めて、詩人について悪いことを考える。その内容が次の節。
「邪悪なこと」は直訳では「無価値な言葉」。「言葉」(ダーバール)には「こと」という意味もある。これを「もの」と理解して、何か邪悪なもの、と考えるか、「言葉」を「呪いの言葉」のように理解して、「たたり」と考える。日本語での「たたり」と同一とは限らない。口語訳では「たたり」として、「注がれた」を「つきまとった」と意訳。また新改訳は「邪悪なもの」が「とりついた」と訳している。どれにしても、7節のように、敵対する者たちが「考えた」こと。
「そいつ」としたのは、代名詞の「彼」ではなく、関係代名詞を使っているから。
「伏せて」は「横になる、寝る」という動詞。ここでは病の床に伏すことだろう。彼らは詩人の病を悪しきもの(こと)の故であるとして、非難し、詩人の苦しみを増し加える。
「再び起きあがらない」は直訳では「起きることを加えない」。二度と起きないというのは、死ぬというニュアンスを含む。
「平和の人」とは、平和な、充足した関係の友人か、(平和の)契約による関係。「私のパンを食べる」は一緒に食事をする、親しい関係。「信頼する」と共に、詩人のそのような友人までもが彼に敵対した。
「踵を上げる」というのが具体的にどのような意味を持った動作なのかは不明。「私に対して」という前置詞から敵対てきな関係を意味すると推測できる。 詩人の苦しみ(病?)は、周囲の人たちの敵意ある言葉や態度、また信頼した友人たちの批判によって倍増する。
<ここは読まないでも読んでも良い>ヨハネ13:18で、イエス御自身がこの言葉を引用している。「パンを食べた者」イコール敵ということではなく、敵たちは他にもいて、それに親しい共までもが加わるということ。したがって、ヨハネでは、今、一緒にパンを食べている者たちが、敵の仲間に加わることへの警告であり、また、通常ならあり得ない、そのような事が起きることを後で見た時に、弟子たちが、旧約の言葉がイエスにおいて成就した、すなわち約束されたメシアであることを悟らせるためであると考えられる。この詩篇自体はキリスト預言としては多くのことを語っていないが、8節の「再び起きあがらない」は、悪人たちの言葉として反語的に受け止めれば、「再び起きあがらないことはない」という意味なのかも知れない。10節でも「立ち上がる」という言葉が出てくる。<少し分かり難いことでした>
5節から9節は、詩人の苦しみを増し加えている敵たちの姿を述べて、主に憐れみを求めた状況を説明している。5節の「私は言った」から、これらのことが過去の出来事と見ることもでき、それに対して、今の言葉が10節から始まる。
「しかし、あなたです」は大変強い強調。周りの状況は絶望的であっても、神に目を注いでいる。「憐れんでください」は4節と同じ。
「報いる」は「シャーラム」で、平和という意味にも使うが、「完成する、報いる」などとも訳され、相手のした行為に対する当然のことが行われることで、完成する、ということ。「仕返し」(新改訳)と訳すと意味が狭まる。小林師は「実際の復讐ではなく、...病が癒されることが、敵の魔術的力に<仕返し>をすることになる」と説明している。神がなさること以上に復讐をするのが人間の性質だが、それは罪となる。
<ここは読まない方がよい>キリストの預言と合わせると、「復讐、仕返し」と考えるのがさらに難しくなる。例え、最初の意味が復讐を含めた「シャーラム」であったとしても、キリストの復活に置いて8節から10節が成就したと考えると、敵対していた者たちであっても、十字架と復活のキリストによって「贖う」ことが出来る。したがって、原文を書き換えることなく、新しい意味が生まれてくる。旧約時代では考えられなかったことが、新約の恵みによって成就するのである。ただし、ここまで進んだ理解は、まだ研究の余地がある。<読んで解らなくなったかも知れない>
「このこと」は10節の「立ち上がる」こと。詩人の祈りを神が聞き入れてくださったということ。
「喜んでおられる」とは詩人が神に受け入れられているということ。敵たちがどのように迫害しても、神は彼を受け入れ、喜んでくださる。
「勝ち誇る」は戦いにおいて勝利の叫びをすること。悪を行う者たちが勝利をすることは神の御旨ではないと詩人は確信している。
「そしてわたしは」は、10節で「しかしあなたは」となっているのと繋がっている。神の救いによって詩人は祝福の中を歩むものとされる。
「支えられます」と「立たせてくださいます」は同じ事。「支える」を「掴む」と理解して、エノクのように神に「掴まれて」天に上げられ。神の前に過ごすことを願っていると考える者もいる。しかし、詩人は地上での解決をも祈っており、全てから離れるという救いは考えにくい。
「全き」は「完全」という意味だが、新改訳は「誠実を尽くす」、新共同訳は「無垢な」と訳す。4節で「罪を犯した」と告白しているが、この「完全」は罪なき完全ではなく、神の前で与えられている「私の全き」。
「永久まで」とは私たちの理解とは異なるかもしれない。少なくとも終わることを考えない意味での将来。「御前に立つ」と合わせて、神に受け入れられ生きる生き方であり、それが永遠に続くのが天国。 詩人の受ける恵みは、私たちで言うところの「永遠の命」にまで続く。このことを考えるときに、単なるの復讐の祈りでは無いことが解る。私たちに願いも、神の前での生活が無いと、空しくなる。それが永遠に続くところ、それが天国であり、今、神様の前に生きるなら、天国を味わうことが出来る恵みがある。
「ほむべきから」は、人間に対してなら「祝福する」だが、神に対しては賛美の言葉と考えて良い。
「アーメン、アーメン」は、会衆の言葉と考えられる。この節は第1巻の締めくくりとして書き加えられたと考えられ、神への頌栄である。
1〜3 病の中にいる憐れみの人を神は助けられる
4〜9 敵意ある仕打ちと、友人の裏切り
10〜12 救いを求める祈り
13 頌栄
親しい友の裏切りは、最も辛いことであり、苦しみを増し加える。しかし、弟子達の裏切りを味わわれたキリストが復活を遂げられた時、赦しの恵みが明らかにされた。恨みではなく、神の前に生きる祝福を願う者となりたい。また、そのような素晴らしい救いを与えて下さる神様を、いつまでも賛美したい。